地域おこし協力隊と聞くと、地方に定住することがゴールだとイメージする方も多いのではないでしょうか。
そんな時代も終わりに向かっているのかもしれません。福島市松川町地区で地域おこし協力隊として活動する南雲まりなさんは、多拠点生活を目指していて、拠点の一つとして松川町を考えていると言います。人口がどの地方でも減少し、関係人口を増やすことを目的とする自治体も増える中、南雲さんが目指す地域との関わり方は、地域創生に繋がる一つの方法になるのではないでしょうか。
今回は学生の頃から地域おこし協力隊になりたかったという南雲さんに、協力隊になるまでの経緯や活動をする上での苦労など、お話を伺いました。

建築学を志し、コミュニティ形成について研究した学生時代
――まず福島市に移住される以前の経歴について教えてください。ご出身はどちらなのですか。
長野県栄村という雪深い地域の出身です。小さな村なので中学校までしか村内になく、高校は隣の飯山市まで電車で50分かけて通いました。栄村は新潟県との県境になるので、新潟県津南町や十日町市は栄村の人にとって生活圏です。特に冬は、除雪が上手い新潟県側に出ることの方が多かったですね。
そんなふうに新潟に馴染みがあったこともあり、高校卒業後は新潟市の大学に進学しました。工学部で建築を専攻していましたが、研究室は文系出身の教授のもとでコミュニティ形成などのソフト面について学んでいました。卒業論文では、新潟県十日町市で開催される「大地の芸術祭」が地域に与えた影響に注目し、特にそこで活躍した女性の関わりと、地域の人口変動との相関について研究しました。その結果、当初から芸術祭を受け入れ、女性が多く関わっていた地区では人口の減少が緩やかである傾向が見られました。田舎では女性が表に出る場面は少ないですが、実際には多くのアンペイドワークを担っていますよね。これまで評価されてこなかったそうした部分が、飲食店の運営や作品制作など芸術祭の様々な場で表に現れ、それが若い世代にも良い影響を与えたのではないかと考えました。

地域と奔走する協力隊に憧れて
――建築と言ってもかなり社会学的な研究に取り組まれていたのですね。そもそも建築に進まれたのはどうしてだったのですか。
「大改造!!劇的ビフォーアフター」というテレビ番組の影響で建築士に憧れるようになりました。憧れそのままに大学へ進学しましたが、学んでいく中で、空間を作ってもそれを利用する仕組みがないとただの箱もので終わってしまうことを目にしました。空き家は増え続けているのにまた新しく建てて、建物が飽和していく状況にも疑問を抱くようになり、新しく建築することにあまり関心が湧かなくなったんです。その一方で、地方創生やまちづくりといった、建築ありきではない分野に惹かれるようになり、文系出身の教授のところにお世話になったという流れです。
そんな気持ちの変化を経て迎えた就職活動ですが、まちづくりを掲げている企業や行政の募集を見ても全然ピンときませんでした。地域課題に対して、どうしても企業や行政は「やってあげる」という立ち位置で、地域の人もそれに対して「やってもらう」のが普通になって、自分の地域のことなのにお客さま化する。この関係性がしっくりこなかったんです。
そんな中で思い浮かんだのが、地域と同じラインに立って奔走していける地域おこし協力隊の存在でした。私が小さい頃、栄村にも地域おこし協力隊に似た制度の、集落支援員(※)や緑のふるさと協力隊の人たちが地域に入っていて馴染みがあったというのもありますね。(※集落支援員の関連記事→隠岐の島町,三次市,館山市)
だから本当は新卒で協力隊になることも考えていました。ですが、奨学金という借金を抱えている身で、3年という限りのある協力隊にいきなり就くのはどうなんだろうと家族とも話し合い、納得した上で一度普通のサラリーマンになることを決めました。
建設会社の営業職で内定をもらい、千葉県の支社に勤めることになりました。主にBtoBの仕事をしていましたが、営業の考え方は納得できない部分が多く、早々に向いていないことを悟りました。利益を最重要視する人たちの言い分がどうしても合わなかったんです。
また、協力隊になるなら身軽なうちが良いと思ったこともあり、その建設会社は結局1年半で辞めました。そのまま千葉で派遣として働きながら軍資金を貯めたり協力隊の情報集めをしたりしていました。

松川町地区の求人と出会う
――そんな時に松川町地区の地域おこし協力隊と出会われたのですね。
そうです。主にJOINというサイトで協力隊の情報を見ていたんですが、「海を渡らない」ということ以外、地域にこだわりはありませんでした。ただ業務内容については、空き家や古民家の利活用に携わりたいという思いがあったので、その条件に絞って募集を探していました。そんな中で見つけたのが福島市松川町地区の募集です。福島なら東京から1時間半ほどで行ける距離だったので、まずは行ってみようと思って。実際に行ってみると、地域の方も自治体の担当者の方もとても真っ直ぐな温かい人たちで、結局他の地域には行くことなく、福島市に決めて今に至ります。
福島市でも毎年空き家関連の募集が出るわけではないので、タイミングが良かったなと思います。

――福島市で生活されてみて、暮らしはいかがですか。
来る前は「東北だから夏でも涼しいのかな」と思っていたんですが、福島市は盆地なので思っていた以上に暑くて驚きました。故郷の栄村の方が、朝晩はずっと涼しいですね(笑)。
活動している福島市松川町は4つの町村が一つになってできた地域なので、田園風景が広がるエリアもあれば、アパートやスーパー、飲食店が並ぶエリアもあります。住んでいるところから徒歩圏内にコンビニもあるので、田舎育ちの私としてはびっくりしているくらいです。
地域の人からはよく、「松川町は中途半端だ」「もっと田舎だったら人が来るのに」といった声を聞きますが、すごく贅沢な話だと感じています。私の故郷もそうですが、田舎過ぎるとそもそも日々の生活を送るだけでも一苦労なので、日常に不安を抱えなくて済むという点ではとても満たされているまちだと思います。実際、移住してから生活に困ったことは何ひとつないです。



やりたかった古民家再生。相続問題が計画を阻む
――地域おこし協力隊としての業務は空き家再生がメインとお聞きしましたが、松川町には古民家がたくさんあるのですか。
空き家の数自体はかなりあると思います。ただ、いわゆる古民家カフェなどで目にするような雰囲気の物件は数あるわけではないですね。協力隊が携わる予定だった物件は元々養蚕をやっていた住宅で、囲炉裏など歴史を感じる部分も残っています。
協力隊募集当初の話では、その物件を蕎麦屋と総菜屋、また創業支援の場としてシェアキッチンにすると聞いていました。協力隊は、開業から運営までのサポートや申請書類の作成、地域内外の人を繋ぐパイプ役を担うという内容です。私もゼロから何かを作り上げるのは難しいと思っていたので、あくまでも+αの要員として関われることに魅力を感じていました。
ところがいざ着任してみると、物件の相続登記がきちんとされておらず、そこを解決しない限りは進められない状況になっていたんです。地方だと同じような物件は珍しくないと思いますが、相続はあくまでも個人の問題なので協力隊としては介入出来る範囲が限られていて、このまま進められるかどうかわからない状態になっています。
計画通りいかなくてもできることを
そんなこんなで1年目は古民家に関して出来たことは多くありませんでした。その代わり、地域の人に顔を覚えてもらったり、私自身が地域の人・こと・ものを知ったりする時間に充てました。また、地域の人の「こんなことしたい」、そんな思いに対して、私だからスムーズにいくことは何かを考え、デザインやSNSでの情報発信、学生とのパイプ作りなど、協力隊として関わらせてもらいました。今後、何か地域の人に協力してもらいたい場面が出てきた時、関係作りがうまくいっていないと「あんたのために力なんて貸さないよ」と言われてしまうと思うので、この1年は決して無駄ではなかったと思います。
私は子どもの頃から、集落支援員や緑のふるさと協力隊の方々を見てきているので、外から一人で来て活動してくれる人に対して、地域がどう思っているか少なからずわかっているつもりです。だからこそ、私も地域との信頼関係をきちんと築いていくことが何より大切だと思っています。

心のゆとりがあり、団結力もある松川町の人たち
――当初の計画とは違った形ではあっても、地域に溶け込み、求められる場所で活動されているのですね。ちなみに松川町の人たちはどのような方が多いのですか。
優しくて生きる力が強い、そんな人たちです。生活に必要なことのほとんどを自分たちでまかなえるほどの知恵や技術、団結力を持った皆さんなので、他人に過剰に求めることをしない、そのスタンスが地域の穏やかな雰囲気に表れているのかなと思います。福島市の他地区の協力隊からは、「松川町のほのぼの感、恐るべし」と言われたことがあります(笑)
優しさにもいろいろな形がありますが、松川町は押しつけがましくない優しさを持った人が多いと感じています。そんな人たちだからか、私もすごく溶け込みやすかったです。私に対して定住を強いることもなく、いつでも頼れとドンっと見守ってくれたり、「しんどくなったら逃げたって良いんだ」とそんな言葉をかけてくれたり、私個人の意見や選択を尊重してもらえていることを実感する場面が多いです。松川町の協力隊は一人なのでしんどいこともありますが、地域のおっちゃんたちには特にかわいがってもらっていて、人に恵まれた移住だったなとしみじみ感じますね。

松川町を拠点の一つに
――1年目は古民家での活動が相続問題で進まなかった中、地域の人との関係を築いてきた南雲さんですが、2年目以降はどうしていきたいとお考えですか。
先ほどお話しした物件がどうなるか見えない状況ですが、やはり古民家や空き家を利活用したいとは思っていて。だから「もう自分で一から物件を探そう」と動き出したところです。地域の人に協力してもらいながら、地域を回って探している最中ですね。民泊のような宿泊関係の場所を作りたいと思っているので、そのための物件があればいいなと。
もともと自分でゼロから事業を始めることには抵抗もありました。でも、やってみたいことがあって、それに挑戦したいと思える場所にいるなら、始める以外の選択肢はない!と、この1年で気持ちに大きな変化がありました。松川町だったから、そう思えたんだと思います。
事業を始めることに抵抗があったのは、一つの土地に縛られた暮らしがあまり好きではないからなんです。でも、今は複数の拠点を持つ暮らし方も一般的になってきていますし、やりようはいくらでもあると思うので、松川町を拠点の一つとして自分のやりたいことに取り組めたらなと思っています。故郷の栄村にも定期的に帰ることができるような生活がしたいので、松川町の拠点では私が常にいなくても回るような仕組み作りを目指して頑張りたいです。
ありがたいことに私は、現在進行形で、本当にたくさんの人との出会いに恵まれていると思います。勉強の機会をいただいたり、活動の新しい方向性を提案してくださったり、面白い取り組みをしている方と繋げていただいたり…。「一緒に何か面白いことができたらいいね」と、力になってくださる人がこうして周りにいてくれるので、うまくパズルを組み合わせながら自分らしい形をつくっていけたらと思っています。
――苦労が絶えないのかと思いきや、今後の展開が面白くなっていきそうですね。南雲さん、今回は面白いお話をありがとうございました。
