不思議な縁で名古屋から隠岐の島へ。地域の人に寄り添って集落を盛り上げていく:隠岐の島町集落支援員_隅田恵子さん

PR

 日本海に浮かぶ、島根県隠岐諸島。180もの島々からなる島々で、雄大な自然と独特な伝統文化が共存する美しい場所があります。

 そんな隠岐諸島で一番大きな島である隠岐の島町に、パワフルに活動する集落支援員・隅田恵子さんがいます。集落支援員とは総務省の取り組みの一つで、集落の見回りや話し合いを通じて、行政と住民との連携などを行う仕事のことです。いったいなぜ隠岐の島町で暮らすことになったのか、集落支援員としてどんな活動をしているのかなど、隅田さんに伺いました。

子どもたちと隠岐の島へ

 私は元々名古屋で3人の子どもたちと暮らしていました。ところがある日、長男が中学1年の時「僕、もう明日から学校に行かないよ」と笑顔で言い出しました。小学校のころから日本の教育がどうにも理解できない、と言い続けていた彼はその後中学2・3年とニュージーランドへと単身で渡りました。

 そんな兄の姿を見て影響を受けたのか、長女も「海があるところへ行きたい」と、どこで調べたのか山村留学をしたいと言い出しました。私自身はそういった「教育への抵抗感」みたいなものは経験が無かったので、「うちの子たちどうしちゃったのかしら」と思いながらもよくよく話を聴き、行けそうなところを調べました。

 そうしたら沖縄県の口永良部島が見つかりました。留学の話も決まり、さあ行こうというところで島が噴火しちゃって。全島民避難になり、行けなくなったんです。

 その後、高校へ進学するタイミングで改めて行き先を探し始めたとき、たまたまテレビで隠岐諸島の島留学のことをやっていました。そこで初めて隠岐諸島を知り、長女も行きたいと興味を示し、隠岐の島町の高校に入学が決まり島留学をすることになったんです。

 高校入学後は私も保護者会や運動会等高校の行事の際には、名古屋からたびたび隠岐の島に通いました。そしたらある時、ニュージーランドにいる長男が、次男と一緒に隠岐の島に住んだら?と言ってきたんです。でも小学生の次男は楽しそうに名古屋の学校に通っているし、当時私もピアノ教室の講師をしていたので教え子もいて「それは無理」と思いました。

 ただそんなふうに長男から言われたら「隠岐の島へ住むかも…?」って考えるようになり、隠岐の島を見る目が変わってきちゃったんです(笑)。不思議なことに夜に考えると「無理無理」と思うんですけど、朝になると「行こう!」って思えるんですよね。何の確証もなかったんですけど。仕事も辞めなきゃいけないし、お金もそんなにないからとりあえず貯金がなくなるまで行ってみようかな、って。その間に仕事も家も見つかればとてもラッキーだな、くらいに思いました。

 それで当時小学四年生の次男に「隠岐の島に行く?」って訊いてみました。そしたらもちろん彼の気持ちも揺れるわけです。「行く!」って言ってみたり「やっぱり嫌だ」って言ったり。そりゃそうですよね。私は次男に「いいよ、あなたに任せるよ」と伝えました。

 そしたら長女の保護者会に次男もついていくと言うので、一緒に行ったんです。すると飛行機から降りた時「え、ここなんでこんなに空気が違うの。なんかおいしい!」って言って。「僕ここに来る!」と。本能で気に入ったみたいでした。それで隠岐の島に引っ越してきたんです。

 なんでしょうね。島が背中を押してくれたような、不思議な感覚でした。「いいよ、おいで」と導いてもらったような。「すべてうまくいく」って思えたんです。移住するにはあまり考えすぎないことが大事かもしれないです。

 保護者会で隠岐の島に来ていたときも、島の方の人柄もあるんでしょうけど手続きや何かで移動するとき、たまたまそこに車で行く人がいて乗せてもらったりして。なんだかすべて流れができているような。そういう出来事も後押しになりました。


何も無い環境こそ求めていたもの

 隠岐の島町で長女と次男と暮らし始めたのですが、そのあとニュージーランドから帰国した長男も隠岐の島町に来て、半年くらい一緒に暮らしていました。でも長男は「すごく気に入ったけど、ここは終の棲家だな。しばらくは他に行く」と言って名古屋に戻っていきました。長女も高校を卒業すると東京の大学へ演劇を学びに行き、そのまま芸の道を進んでいます。次男は隠岐の島町で小学校5・6年と中学3年間を過ごし、「この島は最高だった。高校は都会に行きたい」と札幌の高校に進学しました。みんな出て行ってしまったので近所のおばさまたちは「子どもと一緒に東京行ってしまうんじゃないの」と心配されてましたが、まさかまさか。私はここ以外で暮らす想像がつきません。子どもたちも里帰りは隠岐の島にしたいと言うし、私は本当にここが気に入ってしまって。どう言っていいのかわからないほど良いんですよ。たぶん私がこういう環境を求めていたんだと思います。

 名古屋にいた時、家の隣にコンビニがあったのがすごく嫌だったんです。もちろんあるからには利用します。でも子どもたちが夜遅くに「明日学校でセロテープがいるんだった!コンビニで買ってくる」となるのが本当に嫌で嫌で。何も考えず物が手に入る環境が嫌だったんです。

 時代の流れもあるから仕方がないんですが、自分で考えられる状況にしたかったんです。携帯電話が登場し始めた頃も私は孤独になれる時間が無くなるなぁと思ったんです。普段は社交的で人と一緒にいるのも好きなんですが、誰にも(携帯にも)邪魔されない自分だけの時間は大事だなと思ってて。孤独に思考する時間が無くなることにもすごく抵抗がありました。

 隠岐の島も街の方へ行けばスーパーなどはあります。私が住んでいるところは夜七時には閉まる個人商店が一軒のみ。待ち望んでいた憧れの環境なわけです。「お母さん、セロテープが無い。どうしよう」って言われても「無い!」とだけ言えます(笑)。

仕事も舞い込んできた!

 仕事を辞めて隠岐の島に来たのですが、たまたま回覧板でレストランのアルバイト募集を見つけてました。こんな海の近くで働けるなんて幸せ!と思いながらアルバイトを始めました。ある時隠岐の島町の保育園の先生が足りないからやってくれないか、と声をかけられました。私は大学で保育科を専攻しており、免許がありましたので、半年保育園の先生をしていました。そしたら今度は、私が住んでいる地区の郵便局で働かない?と声をかけられました。喜んでお受けして働いていました。

 郵便局の仕事もすごく好きだったんです。ゆうパックを出しに来た地域のおじいちゃんおばあちゃんと話したり、上司の方にも恵まれたり。朝起きて仕事に行くのがほんとに楽しみで、嫌だなんて一日も思ったことがありませんでした。そんな良い環境で働いていたんですが、どうしてもなんだか篭の鳥だなぁという気持ちはあったんです。「もっと自分で何かしたい」という想いがありました。

 そうしたら今年役場から「集落支援員っていう仕事があって、隅田さんにぴったりだと思うんだけどどう?」と言われたんです。内容を聞いてみたら「ぜひやってみたい!」と思って、この4月に集落支援員に就任しました。

住民の声を汲み取って形にしていく

 集落支援員という仕事は、ずっと地元にいる人でもなく、外からの視点も持ち合わせていて、地元のこともわかるという人がする仕事だと聞きました。それはなぜかというと、お年を召した方を中心とする地区の住民と行政との橋渡しをする仕事だからです。皆さんもちろんお元気ではあるんですが、地域のためにいろいろな行事や施設活用を行って、さらに地域を盛り上げていくんです。だから住民の皆さんと同じ視点で、要望をくみ取っていかなければならない。そこで私のようにしばらく地域に住んでいる移住者がぴったりだったんです。私は5年ここにいるからこそ、みんなの声を吸い上げられるし気持ちに寄り添えると思っています。

集落支援員になったばかりの頃は、空き時間があると「元気?」と戸々を訪ね回るようにしていました。

 私が所属している布施地区では本格的な集落支援員の活動は初めてなので、みんな手探りなんですよ。一応決まりはあるんだけれども、「なんでも好きなことやっていいよ」と言われて「じゃあ本当にやっちゃいますよ」と言って始めました(笑)。私はたとえ小さな声でも何かを求める声をキャッチできるようにアンテナを張っています。

 4月に活動を始めて、地域のママ友が「ドッグランを作りたい」と言うので「私の最初の仕事はそれだ!」と思って、早速取り掛かりました。集落支援員の仕事には空き施設の活用も含まれていたので、現在使用していないゲートボール場を整備して7月にドッグランをオープンさせました。すごく大変でした。苔や草がたくさん生えていたので、みんなで苔を取って草刈りをして。皆さんの協力のおかげでオープンにこぎつけ、利用者もどんどん増えてきているのでよかったなぁと思っています。

 次は何をしようと思ったときに、今度はおばあちゃんたちが買い物に困っているのに気がつきました。以前は移動販売車が来ていたんですが、3月で打ち切りになってしまっていたんです。それをなんとかしようと、今頑張っています。生協の宅配に来てもらえないかと思って。島の街の方には来ているんですよ。だから住んでいる地区にこそ来てもらいたいと思って、この前も生協の人を交えて会議をしたんですけどね。なかなか難しくて、今ちょっと落ち込んでいます。でも「負けんぞ!」と思って(笑)。

 そして、今後継続して行っていきたいこと、「脳トレピアノ®」のレッスン開講です。年配の方に脳トレを行いつつ、ピアノを弾ける感覚を味わっていただくというものです。講師資格は取得しましたが、まだまだ勉強中です。今年度中に第一回目を行うことを目標にしています。

 集落支援員の仕事は思っていた以上に魅力的です。地区の公民館活動にも携わり、お祭り、イベントなど企画、運営をすることもでき地域の皆さんとかなり仲良くなります。

手探り状態の中でも一つ一つのことを大事にしていくことで今までにない充足感を味わっています。

島にいるだけで幸せ

 集落支援員は任期が一応3年なんですが、やり残したことがあれば残れると聞いています。隠岐の島町って、地域おこし協力隊の定住率もすごく高いんです。だからやっぱりいいところなんだなぁと思います。

 何がそんなにいいのか言葉にするのが難しいんですよね。引っ越してから私が「隠岐の島、すごくいい、すごくいい」って言うもんだから、名古屋のお友達がこぞって遊びに来たんですよ。みんな海もキレイで観光地もいいって言うんだけど、私としてはそこじゃないんだよなぁと思っていて。もちろん海も観光もいいんだけど、大地の奥底に眠る息吹というか、そういう目に見えないものがいいんです。相性もあるのかもしれないけど。

 名古屋に住んでいた時、子どもたちを寝かしつけたあと、マンションから見える小さな空に「もっと広い空へ、大空があるところへ!」って思っていたんです。

だから大空と大海原が広がるここにいるだけで、私は幸せなんです。朝起きるのも夜眠るのも幸せ。本当にめぐり合わせに感謝です。本当にありがとう!