学級づくりが社会を創る:都留文科大学「学級づくりの向上をめざす実践講座」主催_渡辺幸之助先生の想い

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 突然ですが、自分の行動によって国や社会を変えられると思いますか?
 おそらく、多くの人が「いいえ」と答えるのではないでしょうか。もしくは自分は「変えられる!」と思うけど、日本社会の多くの人は「変えられない」と言うだろうと予想をする方も多いのではないでしょうか。
 そういった社会に対する虚無感は、低い投票率という形で如実に表れています。自分の手で問題を解決していけるという当事者意識や主権者意識の欠如が、長い間指摘されてきました。

 ではなぜ、日本ではこのような主権者意識が低いのか。そのヒントが学校での「学級づくり」にあるのかもしれません。

 山梨県にある都留文科大学では「学級づくりの向上をめざす実践講座」が毎年開講されています。主催である武蔵野大学 渡辺幸之助特任教授に、講座に込めた想いや近年の学校現場の問題についてお話を伺いました。

先輩教師に教えられて

 私は大学を卒業した後、山梨県富士吉田市という富士山のふもとにある街で中学校の国語科教員になりました。全校生徒が1200人、1学級42人という今ではほぼ存在しない大規模校の3年生の担任をいきなり任されたのです。

 今では初任者で学級担任になると「それは大変だね」という感じですが、当時は学級の数も多いので若い先生でも担任をさせるのが当たり前でした。しかし、学級担任の仕事を大学で学んでくるわけではないので、小中高での担任との関わりを思い出しながら仕事をしていくわけです。ただそれだけだと今よくあるように学級崩壊になるっていうのもわからなくはない。じゃあどうしてたかというと、周りの先生たちの見よう見まねでやっていました。私の場合、金勝武鑑(かねかつたけあき)先生という方を師と仰いで学びました。60年以上続く「全国生活指導研究協議会」という学級づくりや民主的教育の研究会があるのですが、金勝先生は若いころからこの会に所属していらした方なのです。そんな先生が私の目の前にいて、蓄積された学級経営のノウハウを教えてくださったわけです。だから私は失敗を重ねながらも、なんとか学級崩壊に至らずに学級づくりができました。

学級づくりが民主主義社会の基盤

都留文科大学(画像引用元:都留市

 その教えの中で、学級づくりには「班・核・討議づくり」の三つの柱があると学びました。班というのはグループ、核はリーダー、討議は話し合いのことです。
 班のような小グループを形成していくと、子どもたちは自分の不都合があればそのグループの中で共有できる。そして場合によっては自分の意見を言いづらい子どもの言うことも、班長や周りの子がくみ取ってくれる。これは密告や課題提出のための便宜的な集団ではなく、互助的・福祉的な視点を持てるような公的小グループです。そういうものをきちんと作れば、学級は困っている子の声を拾いやすいという考え方です。班長を集めて「どう?班は」と訊けば、班の様子が分かる。そうすればいじめや不登校の兆候をなんとかつかめる可能性が高まります。
 そして核。いわゆる学級委員のようなリーダーは、班を超えて学級という視点でクラスを見てくれます。班長とはまた別の視点で学級を作っていく中心組織です。
 最後に、何か問題が起こったときにみんなで話し合いをして、課題解決をする討議づくりが大切です。
 「この三つの柱をきちんと立てていくことで学級をつくれるんだ」というのが、金勝先生から学んだ基本的な教えですね。

 おもしろいことに、学級内で席順を変えることを山梨県にある8割~9割の小中学校では「班変え」と言うのに対し、東京周辺の学校では「席変え」と言うそうです。つまり、班の役割を意識している地域とそうでない地域では、用語が異なるんです。
 班変えは子どもたち一人一人が要求して良いこととします。「先生、○○くんが授業中ずっと喋ってるから班変えしてください」とか「自分の努力じゃこの班をうまく運営できないから変えてください」とか。そうやって班を変えたら、効果が出る。そういうことの積み重ねが「主権者である」という意識のスタートではないかと考えています。
 子どもたちには要求や願いがあって、それは他人と同じだったり違ったりする。違う部分も含めて合意形成をしていくには話し合いが必要で、その中でお互い妥協していく必要があるときもある。そういう要求と妥協を学ぶのがまさに学級なんだと。

 そうして「いや、待てよ。これって結局この社会をつくっていくものなんじゃないだろうか」と気づいたんです。国や自治体、近所のお付き合いなどでの共助を学ぶ場なのではないかと。どういうクラスでありたいのかと考えて、自分たちの考えを出し合って、話し合って合意形成していく。合意したら実行していく。まさに民主主義の基本ではないですか。それを学ぶ場が学級であり、一番小さな組織で言うと班である。そのことを教員1年目から教えていただきましたね。

 では国レベルでは最近の教育についてどう方針づけられているかと言うと、現在文部科学省では「令和の日本型教育」という考え方を打ち出しています。これはどういうものかというと、ひとつは「個別最適な学び」、もうひとつは「協働的な学び」です。
 「個別最適な学び」とは、子どもひとりひとりの興味・関心に応じて教材や指導方法を柔軟に提供していこうという考え方です。GIGAスクール構想(※1)の流れもあり、こういった言葉が出てきました。
 一方これまでの日本の集団教育 ―集団の中でお互いを認め合い、違いから学ぶという良さ― と、この「個別最適な学び」は相反するところがあるので、多様な他者と協働することも重要だということで、「協働的な学び」という文言も付け加えたわけです。

 ただ、私は本来の日本型教育というのは学級を基盤とした教育だと思うんですね。他の国にはこういう形はあまりないんです。学級担任がいて、子どもたちが朝ホームルームで「おはよう」と集まって。こういう形こそが日本の特徴的な教育であり、良さだなと思うのです。

※1 GIGAスクール構想
一人一台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備することで、特別な支援を必要とする子供を含め、多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、公正に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育ICT 環境を実現するという考え方(引用:文部科学省「GIGAスクール構想の実現へ」)で、コロナ禍を機に一気に「一人一台端末」が普及した。

「学級づくりの向上を目指す実践講座」とは

 しかしやはり学級づくりを学ぶ場が少ないということで、志を同じくする先生方と2011年に「学級づくりの向上をめざす実践講座」を始めました。年に数回都留文科大学の校舎をお借りして、県内の学級づくりに堪能な方を講師として招いてお話をしていただいています。
 講師は小中学校の教員が多いですね。講義内容も講師によってさまざまですが、例えば私が「学級づくりで育む主権者意識」と銘打って「班・核・討議づくり」についてお話ししたり、中学校現場の校長先生が「学校経営から振り返る学級の話」をされたりします。
 中には「小4の体育科で民主主義を実体験する」なんていう講義もありますね。体育でバレーボールをさせるんですが、子どもたちに「ルールを自分たちで変えたり作ったりしていいよ」というわけです。そうすると子どもたちは「3回でボールを返すんじゃなくて何回でもいいっていう風にしない?」とか「一回床についてから打ってもいいことにしよう」とかやっていく。しかしやっているうちに、ルールがあまりに緩くなると逆につまらないということに気付くんです。そんなことを体験させながら、「みんなが楽しめるルールってなんだろう」とか、「学級のルールや社会のルールも、本当はみんなが気持ちよく生きていくためにあるんじゃないかな」といったことを考えさせた実践のお話でした。

 講義は今年で13年目になるんですが(2024年現在)、令和2年度はコロナが流行り始め、開催地の都留文科大学も閉鎖になりました。私も「この年はもう開催を止めようかな」と思いました。そんなとき、教え子に出会って話をしていたら「小学校の教員になるために都留文科大学で学んでいるんです」と言うんです。だから「都留文で学級づくりを学ぶ講座をしていたんだよ」と言ったら、「行きたいです!」って言う。じゃあやっぱり再開するかと、その年の7月から、コロナ禍での制約を受けながらではありますが始めました。200人くらい入る大きな教室で、人と人との間もかなり空けて対面でやったんですよ。そうするとやっぱりみんなこういう交流や学ぶ機会を渇望していたんでしょうね、すごく人が集まって。そうやって今年度まで続いてきました。

 13年で40人以上の講師が携わってくださっているので、講師だけでもそれだけ多くの方に関わってもらっているんです。講師が学ぶ場でもあると思っているので、講義をしつつ学んで、また現場に持ち帰る。良い機会になっていると思います。

学級づくりが現場から衰退したことで現れた問題

 いじめや不登校、子どもの自殺といった問題が顕在化していますが、そういった問題の根底には、教育現場の学級づくり能力が衰退していることがひとつの要因としてあると考えています。
 昔は発達障害という言葉がなかったこともあり、そういった障害を持つ子や不登校気味の子もみんな同じ学級で過ごしていました。そうやってお互いの違いから学んでいたと思います。近年は違いや多様性を活かしきれない学校の姿がにじみ出てしまっているので、親はみんな心配してしまいますよね。
 かなり以前から言われていると思いますが、親が幼児化しているという点も問題です。少子化、核家族化の中で幼い親に育てられた子どもが、小学校に入学してくる。学校で誰かに嫌なことを言われたと家で言うと、すぐに学校に電話がかかってくる。それに若い担任が対応しておろおろしているとまた親が文句を入れると。低学年や高学年を若い先生が担当することはあまりなく、ギャングエイジと言われる中学年にどうしても当てられやすいので、余計そういった問題で心を病んで退職をしてしまうことが多くなっています。

 私が初任者の頃は、子どもが不適切な行動をしたらゲンコツやハリビンタが飛ぶこともあった時代でした。今は体罰が厳しく禁止されていますよね。私の場合は金勝先生に出会って、怒鳴ったり手を出したりしなくて済むやり方を学びました。例えば叱るときも「お前はそんなやつじゃねえだろ!」って子どもの人格を認めながら怒るんですよ。近年はそういうことを教えてくれる先輩が少なくなってきていると思います。若い人が教員になって、いきなりギャングエイジの担任になり、その落ち着きのない子たちに「怒鳴るな」「手は出すな」「諭して丁寧に教えろ」…。そのフラストレーションと親からの苦情がありますから、辞めたくなってしまう気持ちはすごくわかります。

 そして、働き方改革が間違った方向に進められている現場が少なくないことも非常に問題です。ある学校では、子どもとの連絡帳や学級通信を「大変だからやらなくていいよ」としているんです。そうすると、子どもとなかなかコミュニケーションが取れない、情報が入ってこない。若い先生たちが学級担任としての手段・方法をどんどん奪われて、手も折られ足も折られ。「そういう状況の中で何ができるの?」となりますよね。そんなことを良かれと思って進めている管理職もいるんですよ。こういったことは全て働き方改革の履き違えです。
 もちろん昭和ロマンみたいなものを引きずりたいというわけでは決してありません。でも長い間やってきた教育の手段が、どんどん奪われているという側面も確実にあります。

 そんなことで教員不足が深刻化していますね。山梨県でも今年度前期が終わったところで、現場の教員が80人足りていません。校長まで授業をしないといけない状況です。
 教育や教員に魅力が無くなった国の末路は、もう見えていますよね。

学級づくりが担う主権者教育の重要性

 「主権者教育」という言葉は現行の学習指導要領にも織り込まれています。でも現場には主権者教育の「主」の字もないんですよ。私が携わっていた学校で、私以外の人間が主権者教育という言葉を口にしたのを本当に聞いたことがない。そのくらい絵にかいた餅になっていますね。

 2021年の朝日新聞グローバルの記事に、9か国の17歳から18歳を対象に「自分で国や社会を変えられると思うか」という質問をした結果が掲載されていたんですが、日本は18%で最下位でした。そのくらいしか、自分で国や社会を変えられると思っていないと。
 昨年も衆議院選挙がありましたが、投票率はどんどん下がっていますよね。文科省も主権者教育をやっていく必要があると思ってはいるようで、「主権者教育推進会議」というものを組織しています。ただやっぱり日本は戦後の反省もあって、直接的な政治教育へのアレルギーみたいなものがどうしてもありますよね。

 では同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツではどうか。ドイツでもナチスドイツの反省から政治教育はタブーだったんですね。しかし1976年というかなり早い段階で「このままでは国民は育たない」と考え、以下の3つを守って政治教育をしていこうという方針を立てたんです。
 ひとつは「圧倒の禁止」。教師の意見が生徒の判断を圧倒してはならないということです。ふたつめが「両論併記」。論争がある問題は論争のあるものとしていろいろな考えを示さなければならない。それから「関心・利害の重視」。生徒が自分の関心や利害に基づいて政治参加をするために、必要な能力を獲得できるようにするということです。この3つをクリアしていれば、学校で堂々と政治教育をしていいんだよ、ということを当時まだ西ドイツだったころに打ち出しているんですよ。
 また、スウェーデンでは国政選挙の際、生徒自身が運営して模擬選挙を行うそうです。あくまで模擬選挙なので選挙結果に影響を与えはしないのですが、国全体で集計されて公表されます。また、学校では学校会議というものが行われて、職員会議のようなものに生徒・教員・保護者・外部の人間が参加し、学校の行事や規則、時には授業内容や教材について公平に議論を行うことができるんです。
 もう、日本とは圧倒的に違います。文科省もそのことはわかっていて掛け声はかけているんですが、本当の意味でやる気はないので、学校現場には具体的な施策として降りてきていないように思いますね。

自分ごととして問題を捉え、行動を起こす必要がある

 本当にこういった由々しき事態が起きているんですが、それに抵抗を試みているのがこの「学級づくりの向上をめざす実践講座」ということですね。焼け石に水みたいな感じですが、どうにかして大きなうねりにしていかなければなりません。この記事を読んでくださっている方も、もし賛同してくださるのであればよかったら広げていきませんか。

 こんな状況でも学生っていうのは本当にいいもので、どんどんいろいろなことを吸収していきます。学生たちに「これからどうする?」って問いかけると「このままじゃまずいですよね」って徐々に動き始めるんですよ。大学教員になったこの5年間で、学生たちの中に主体的な動きがいくつかありました。「先生、私たち教育問題を研究するサークルを作りたいんです」とか「模擬授業をいきなり授業でするのはやりづらいので、模擬授業をするサークルを作ります」とか言う学生たちが出てきて、それぞれのサークルの顧問を担当していますよ。そういう自発的な動きが出始めているので、教育の可能性ってやっぱり大きいなと感じています。希望を失ったら、教員なんかとてもできません。状況は極めて深刻なんだけど、明るくやりましょう。教員になりたいという人がちょっとでも増えることを願っています。

 やっぱり、何でも自分ごととして物事を捉えることがスタートなんです。例えば『コモンの「自治」論』(斎藤幸平他,2023,集英社)1の中で木村あやさんという社会学者が「切実な気持ちや悩みは自治の小さな種だ。その不安に向かって何か行動を起こせば、それは自治の始まりだ」というようなことをおっしゃっていて。これがストンと腑に落ちたんですよ。
 自分の中で「困ったなあ、どうしたらいいのかなあ」ということがあったときに、「それってもう自治の種だから、大事にしよう、私の困りごとは私だけのものじゃないんだ」と行動を起こす。それを誰かに、例えば隣の人に言う。そうすれば、その行動はもう自治に向かって一歩踏み出したということなんです。そんなことを子どもたちや若い人たちに伝えていけば、「私にもできるんだ」って思えるんですよ。
 この本は岸本聡子さんという杉並区の区長になられた方も著者に名を連ねていらっしゃるんですが、区役所に小さなお子さんのお母さんが何か相談をしに来たとき、2週間で制度を変えたというお話が載っていました。岸本さんは「地方行政の中に民主主義の可能性があるんだ」とおっしゃっていて、国がずさんな状態の中でもそんな可能性があるんだということに勇気づけられますよね。

 だからこの記事を読んでいる方も、自分の子どものこと、パートナーのこと、職場や近所の人のことで「どうしたらいいんだろう」と思ったことは、もう既に自治の種なので、そこに可能性があるんだと思ってほしい。生きていく上で、変に落ち込まないということは重要ですから。

最後に、教員の方や教員をめざす方へ

 私は教員になる前からずっと何かしらの教育サークルに所属しているんです。その中で「教員は学校の中だけで学ぶ存在じゃないんだ」ということを目の当たりにしてきました。何か困りごとや悩みごとがあればそこで相談したり教えてもらったりということができたんです。学校で教員として働いていれば嫌なことも起こるけれども、サポートを頼めば信頼できる先生が関わってくれて解消していける。それは子どもたちにも言えることで、学校で先生や他の子どもたちと一緒に学んでいくことで、社会に出てもこの社会を乗り切っていける、自分の人生を自分の力で周囲と協力し合いながら作っていけるという自信を得ることができるんです。そうやって国家や社会は成り立っていると思うんですよね。

 だから今教員としてがんばっている方、これから教員になりたいと思っている方には、ぜひ学校の中だけではなく外でも学んでほしいということをお伝えしたい。あぁでもこれ、「働き方改革」とは逆行しちゃいますね(笑)。

結び

 さまざまな問題がある中でも希望をもって教育の可能性を信じ続ける渡辺先生の姿に、勇気づけられた方もいるのではないでしょうか。社会は混沌へ向かっているように思われがちですが、「自分で社会を変えられる」と行動を起こす人たちが、たしかにいます。

(渡辺先生出演のYouTube動画が公開されています→こちら