地域で育ってきた伝統工芸を絶やさない為に。福岡県八女市の技術継承支援

PR

 「八女」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。お茶の名産地としても知られていますし、高校野球の強豪校である「西日本短大付属高校」(北海道日本ハムファイターズ・新庄剛志監督の出身)もあります。しかし、実は八女市は昔ながらの伝統工芸品がたくさん残っている町でもあるのです。

 国の指定を受けているものから、福岡県が認めた工芸品まで、様々なものが今も作られています。その背景には、城下町としての歴史や、森林資源の豊かさがあり、昔からものづくりに適した環境が整っていたことがあるそうです。

 今回は、八女市役所 商工・企業誘致課で伝統工芸の支援を担当されている中島さんと、県外から移住して市の支援を受け、八女矢の修業に励んでいる平田さんにお話を伺いました。受け継がれてきた技術を次の世代に繋いでいくための取り組みと、伝統工芸の現状とは?

(記事掲載日:2025年6月10日)

画像引用元:Map-It

多彩な工芸品が生まれた背景と現状

八女石灯篭

――八女市というと、私のイメージは「お茶」と「ホリエモン」だったのですが、伝統工芸品がたくさんあると知って驚きました。八女市の伝統工芸を簡単にご紹介いただけますか?

中島さん:

 まず国指定の伝統的工芸としては、八女福島仏壇と八女提灯、それから久留米絣があります。久留米絣の産地は、八女市、広川町、久留米市などにまたがっていますが、現在、八女市内の久留米絣の工房は一軒しか残っていません。
 次に、県の指定を受けているものとして、八女矢や八女手漉和紙、八女石灯ろう、八女和ごまなどがあります。

 八女市内の福島という地域は、かつて福島城の城下町として栄えていました。それに加えて矢部川という一級河川があり、昔は物資を運搬する重要な水路として利用されていました。古くから交通の要衝と言える場所で、現在も国道3号と442号が通っています。
 また、八女市は今でも市の面積の7割を森林が占めているくらい、昔から森林資源が豊富な地域です。
 八女市が数多くの伝統的工芸品を擁する町となった背景には、それら工芸品の素材となる森林資源が豊富で、矢部川や道路網による流通経路があり、さらに城下町で工芸品の需要があり、職人さんがものづくりをする環境が整っていたということがあると思います。

八女福島の町並(写真提供:福岡県観光連盟

――そういった伝統的工芸品を次世代に継承していくことに、行政としても力を入れておられると思いますが、いつ頃から始められたのでしょうか?

中島さん:
 八女市として伝統工芸等の技術継承支援の取り組みを始めたのはもう結構前になりますね。提灯にしても仏壇にしても、「伝統工芸」という産業自体、需要がものすごく減ってきています。工芸品の工房や事業所においても、そもそも後継者を育成するだけの仕事がないというのが実情です。
 長年続いてきた技術を受け継いでいってほしいという思いはあるけれども、なかなか一人雇用して給料を支払っていくだけの「体力」がない、という事業所はたくさんあります。そのような「後継者を育てたくても、現実的に育てられない」という声が集まったことで、育成を受ける側(研修者)・育成する側双方に対して支援を始めたというのが大まかな経緯です。
 元々は仏壇や提灯といった業種が多かったのですが、他の物品にも広がり始めています。

↑クリックで拡大

海外在住経験者を射止めた八女市

八女提灯

――平田さんは県外のご出身と伺っていますが、八女市に住み始めたことには伝統工芸に携わりたいという思いがあったのでしょうか?

平田さん:
 私は昨年八女に引っ越してきまして、現在は市役所の技術継承支援を受けて、八女矢の工房で修業させてもらっています。
 前職は航空会社に勤務していて、これまでのキャリアの中で伝統工芸に携わった経験はありませんでした。ただ、前職で海外に住んでいたこともあったので、「外から見た日本の良さ」を感じることは結構あって。伝統工芸だったり食べ物だったり、実はすごく貴重なんだなって改めて感じる機会があったんです。

 なぜ八女に?ということですが、八女には知り合いが住んでいて、その方を訪ねたのがきっかけでした。
 最初は住むことになるとは思ってもみなかったんですけど、しばらく滞在するうちに「すごくいい場所だな」と感じるようになりました。その後、知り合いを通じて、今いる八女矢の工房とご縁ができたんです。八女市に続いて伝統工芸の世界にも、「とりあえず飛び込んでみよう」と、飛び込んでみました。

――飛び込みがちなんですね(笑)。八女市には、海外で暮らしていた方を惹きつけるくらい魅力があるんですね。

平田さん:
 先ほど「7割が森林」というお話がありましたけど、八女市は本当に見渡す限りお茶畑と森の緑が広がっていて、とても自然豊かなんです。世界中、大きな都市ってどこも似通ってきていると思うんですけど、八女の中心部は街もコンパクトで、独自の雰囲気や景色があります。伝統的な白壁造りの建物が並ぶ通りがあったりして、観光で歩き回るにもちょうど良いサイズ感ですね。

一人前になるまで十年

――現在お勤めの八女矢の工房では、具体的にどのようなことをされているのですか?

平田さん:

 最初に入ったときから今も継続して担当しているのが、矢羽を作る工程です。
 矢の頭(矢尻の反対側)には羽根が付いていて、これを矢羽と呼びます。矢羽の部分に糸を巻いて、その上からニス塗りをして固める作業だったり、矢羽の材料である鷲や水鳥の羽根の形を機械で削ったりして整える作業を行っています。
 矢作りには様々な工程があるんです。師匠はもう一から十までご自分でされていますが、見習いはまずその工程の一部をやって、それができたら次やって…と、一人前になるまでに十年はかかると言われる世界のようです。

中島さん:
 支援制度を利用する研修生の方には毎月日誌を提出していただくんですが、それを見ると、本当に毎日同じ作業をずっと繰り返している感じですよね。根気強くやっていかないとものにならないんだなと感じます。
 本支援制度が受けられる期間は最長3年なんですが、正直なところ、途中で脱落してしまう方もいらっしゃいます。それだけ大変なことではあると思いますが、もちろん支援制度を全うされて職人になった方もいらっしゃいます。
 伝統的工芸品の生産工程は分業制になっていることが多いのですが、例えば提灯の絵付けをマスターしたからといってそのまますぐに生計を立てられるかというと、そう簡単でもないんです。ですので、支援制度終了後はその事業所にそのまま継続して雇用されるというパターンが一番多いですね。

――なるほど。そのように様々な人の手を介して作り上げられた伝統工芸品って、どんな販売ルートがあるのでしょうか?

平田さん:
 私の研修先の工房では、弓道をされている方からのオーダーが主な販売先です。うちの工房は開放していて破魔矢や飾り矢も置いていますので、観光客の方が工房に寄って商品をご購入いただくこともできます。ただ、基本的に職人さんが作業しながらになるので、対応ができる時に開放をしています。すべての工房がお店を開放するのは難しいかもしれませんね。
 あとは、最近だと台湾やヨーロッパなど、弓道や日本の弓に興味がある海外の方からご注文を頂くこともありますね。そういった新たな販路の開拓やPRも含めて、伝統工芸が続いていくような働きかけができるといいなと思っています。

八女矢の作業をする平田さん(撮影:「egoistas」発行人・編集長 坂本竜男氏)

現状は厳しいが支援を続ける

――光明は海外にありそうですね。行政としても、このような支援制度は今後も継続される意向でしょうか?

中島さん:
 はい、その思いは強くあります。
 八女矢に関しては、平田さんがお話しされたように「競技用」という用途があります。平田さんの研修先の工房では多くの注文を受けられており、一定の需要がある印象があります。一方で、例えば仏壇となってくると、用途も限られるし需要自体が今後も拡大することはなかなか見込めず、その辺りは現実的に悩ましいところです。
 仏壇を作る技術で新しいものを開発する動きもあって、行政としてはその支援も行っています。ただ、そのことと「伝統的工芸品の仏壇そのものを作る技術を残していくにはどうしたら良いか」というのはまた別の話です。生産工程が分業制になっている分野だと、余計にどう残していくのかを考えるのはなかなか難しいですね。
 伝統的工芸品って、長い時間をかけてその地域で育ってきたものなので、その技術はできればなくしたくないという思いは、伝統工芸に携わる方皆さんおありになります。手探りではありますが、平田さんのように伝統工芸を継承される方を少しずつでも支援していくことで、行政としても技術の継承を支えていければと考えています。

――大谷選手で一躍話題になった兜や南部鉄器の茶器など、日本の伝統工芸品が海外で注目される機会が少しずつ増えている気がします。今後の展開も期待しています。貴重なお話をありがとうございました。

八女伝統工芸館