島根県立大学_平井俊旭先生に訊く:どこで生きていく上でも大事な柔軟性、応用力、自ら感じ取り考える力

島根県立大学で講師を務める平井俊旭先生は、武蔵野美術大学を卒業後、杉本貴志氏が設立したインテリアデザイン事務所、株式会社スーパーポテト(以下、「スーパーポテト」)に入社。その後は株式会社Smilesにて、スープの専門店「Soup Stock Tokyo」の成長を黎明期以前から支える重要な役割を果たすなど、企業のブランディングや運営に奮闘されました。

その後は、滋賀県高島市の公開コンペで受託した「びわ湖高島ブランド戦略推進事業」「高島市 都市部における特産品販路開拓事業」などをはじめ、デザイン的な視点で、官民問わずさまざまな地域や企業の課題の解決に取り組んでいます。現在は島根県立大学で学生たちに実践的な知識とスキルを伝えながら、島根県立大学のサテライトキャンパスであり、一般に公開しているブックカフェ、「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」の施設運営をゼミ生と行う等、多岐にわたる取り組みを展開。この記事では、平井先生のキャリアと実績について深掘りします。

平井 俊旭 先生

島根県立大学 講師〈ブランディング論〉

神奈川県出身。
武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業。
インテリアデザイン事務所(株)SUPER POTATO、(株)Smilesを経て起業。雨上(株)代表取締役。

杉本貴志氏との出会いと型破りな経歴のはじまり

武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科を卒業後、4年間大学で助手を務めた私は、当時のインテリアデザイン業界を代表する一人でもあった杉本貴志さん(故人)が代表を務めるスーパーポテトに入社しました。

当時からスーパーポテトは多くのインテリアデザイナーにとって憧れのインテリアデザイン設計事務所でしたが、大学で舞台美術専攻だった私は、正直に言えばインテリアデザイン業界は、選択肢として考えたことは有りませんでした。ところが、大学での助手の任期が終わるころ、ある日突然、当時空間演出デザイン学科の教授でもあった杉本先生が他の教員の前で「平井をうちで雇います」と宣言され、非常に驚きました。その場では了承したものの、自分に勤まるとは思えず日をあらためてお断りに行きました。しかし、杉本先生からは「さまざまな人に会わせることも、経験を積ませてやることもできる。その中から自分がやりたいことを探せば良い」という提案をしていただき、入社させてもらうことになりました。

スーパーポテトはインテリアデザイン設計が仕事ですが、私のところにはデザイン設計以外のあらゆる仕事が振られてくるような状況でした。ほとんどの仕事が会社にしても前例の無い業務だったため、直属の上司は社長、教えてくれる人も居ないし、参考資料もない中で、自分一人で考え、杉本社長の納得の行く提案をしなければなりませんでした。ほとんどの自分の浅はかな提案は直ちに却下され、なかなか承認を得られず、仕事以外の社長の送り迎えのような仕事や社長の主催するお茶会の懐石料理やゲストを招待するパーティーの料理を一人で作ったりと、大変な日々でしたが、物事の基本的な考え方や姿勢を近くで学ぶことができたことは、その後の自分の人生にも非常に大事な経験だったと感じています。

4年半ほど非常に濃密な経験をさせていただきましたが、「将来的に自分がやりたいことは杉本さんの模倣ではないのだろう」と感じるようになっていました。そんなことを考えるようになったころ、会員制のお茶の倶楽部「青庵」を立ち上げ運営する案件に携わった際、その会員の中に、後に株式会社Smiles(以下、「Smiles」)の創業者となる遠山正道さんがいらっしゃったことを思い出しました。

当時大御所のデザイナーや企業の役員が集まる倶楽部の自己紹介の場で「スープ屋をやりたい」と語る三菱商事株式会社(以下、「三菱商事」)の社員だった遠山さんの言葉が印象的で「スープ屋って何だろう?」という疑問が頭の中に残っていました。その後遠山さんはお茶の倶楽部に姿を現すことは無く、2年ほど遠山さんとお会いする機会もありませんでしたが、ふと彼を思い出し調べてみると、本当にスープ屋を立ち上げていることが分かりました。

思い切って手紙を送り、遠山社長に話を聞いてもらう機会を得ました。そこで、当時の「Soup Stock Tokyo」について「もっとこうしたらいいのではないか」と考えた企画書を作ってプレゼンし、求人もしていないのに「雇って欲しい」と頼み込んでみました。

アルバイトから始まった、Soup Stock Tokyoの再建

遠山社長に会いに行った当時、Soup Stock Tokyoは都内に6店舗ほど有ったのですが、うち5店舗が赤字だったため、会社は倒産寸前であり、社員を雇う余裕など全くありませんでした。しかし、私が訪れた日、偶然にも小口現金管理という役職のアルバイトの女性が遠山社長に退職の相談をした直後だったため、その代わりのアルバイトとしてなら雇うことは出来ると言われました。結果的に外注すべきデザイン業務を自分が請け負う場合は別のバイト料を支払ってもらうことを条件に、アルバイトとして雇用してもらうことになりました。

入社後は、会社を立て直すために考えていた数々の施策を一つずつ実行していきました。肩書上は小口現金管理担当のアルバイトでしたが、アルバイトであるか正社員であるかは当時どうでもよい問題だと思っていました。とにかく利益の出る店にすることが目下の成すべきことで、毎晩のように遠山社長に店で夕食をご馳走になりながら、二人で対策を考えていました。Soup Stock Tokyoは、遠山社長が在籍していた三菱商事の子会社である日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下、「KFCJ」)に出向していた際、KFCJの新業態としてSoup Stock Tokyoの原案となる企画を遠山社長自身が起案したことがきっかけとなり、始まった事業です。
1999年、お台場のヴィーナスフォートにオープンしたSoup Stock Tokyo 1号店は、KFCJが出資してオープンした店舗です。

遠山社長にとってSoup Stock Tokyoは心血を注いだ事業であり、1号店はオープン直後は順調に展開していきました。そのような背景から当時三菱商事の社員だった遠山さんの働きかけによって三菱商事がKFCJから1号店を買い取り、2000年には三菱商事の社内ベンチャー0号としてSmilesという子会社を設立し、Soup Stock Tokyoの事業運営が三菱商事からSmilesに移管されました。

Soup Stock Tokyoのヴィジョンは、遠山社長がKFCJに提案した企画書に予言の書のように明確に描かれていました。彼はアンチファストフード的な思想を持ち、独創的なスタイルを追求していました。市場迎合を嫌い、自分達の有るべき姿に拘っていました。ビジネスマンというより、文化人としての気質を強く持っていました。

更に、遠山社長は同じ店舗を量産する合理性に関心が薄く、毎回新たなことに挑戦することを楽しんでいたため、お客様にとっては一つのブランドだということが認識し辛い業態になっていたと思われます。

模索し続けた経営とクリエイティブのバランス

遠山社長はとにかく楽しい事をやりたいという思いが強いため、私は遠山社長の思いの具現化と事業性のバランスを取ることに注力しました。遠山社長のヴィジョンを意識しながら事業を立て直すためにやってきたことは大きく以下のような内容になります。

1,その日に食べられるスープを店に入る前に分かり易く且つ美味しそうに見せること。
2,駅ビルのような店前通行量が多いが区画面積が限られている立地に坪効率の良い店のデザインをすること。
3,リピーターに商品の価値を深く理解してもらうために、商品の背景を伝えること。
4,業態のイメージがぶれないようにデザインのルールやレギュレーションを作ること。
5,従業員が仕事にプライドが持てるようなインナーブランディングのための下地を作ること。

このような地道な取り組みが駅ビルのブランド化の波に乗り、次々にリニューアルする駅ビルから出店オファーをいただけるようになったことが、事業の黒字化の要因となりました。
飲食事業はデザイン事務所の仕事と異なり、デザイン事務所は店を引き渡したら完了ですが、事業会社は引き渡されてからが本番です。事業会社の中で働くインハウスのブランディングディレクターという仕事は、デザイン事務所とは異なる視点での試行錯誤が有り、中小企業が抱える様々課題と向き合い経営とクリエイティブのバランスを考え続けるという貴重な経験を得ることが出来ました。

14年間Smilesでの仕事を続ける中で、入社当時年商3億7千万円の売り上げだった会社は、80億円規模の会社になりました。企業が大きくなる中では組織も脱皮しながら成長することになるため、幹部の考え方の変化や人事評価等、様々な軋轢があり精神的に追い込まれる場面にもたくさん遭遇しましたが、今となってはその一つ一つの経験は起業した後の糧になっていると思われます。

事故米不正転売事件という契機

2008年に発生した事故米不正転売事件は、Smilesににとって大きな試練となりました。Soup Stock Tokyoでは参鶏湯(サムゲタン)というスープにもち米を使用しているのですが、OEM先の工場に不正に転売されたもち米が一時的では有るものの、購入され利用されていた履歴が残っていました。
工場は通常通りの仕入れをしただけでしたが、農林水産省が開いた記者会見では、問題の問屋だけでなく、被害者であるその卸先まで全て公表され、メディアは問屋と同様に卸先の企業を大きく取り上げました。当時は「無添加」「食べるスープ」などを謳っていたSoup Stock Tokyoは特に大きく取り上げられ、甚大なダメージを受けました。

そうした中Smilesとしては工場に入る食材の全てをトレースし、出所の特定できない食材は使わないという大きな改革を行いました。結果として販売できるスープが激減したことで、一時は売上も大きく落ち込みましたが、工場の工程の見直しなどの地道な取り組みもあり、1年以内にスープのラインナップを回復させ、結果的にお客様の信頼回復を図ることが出来ました。

私が室長を務めていたクリエイティブ室は商品開発には直接携わっていませんでしたが、この事件を契機に、自分達の事業の在り方を問い直すようになりました。その中で知ったのが「FSC(森林認証制度)」です。FSCは乱開発による森林伐採を防ぎ、持続可能な森林管理を評価する国際的な制度です。当時から海外では森林の違法伐採が問題となっており、特に東南アジアやロシアの国立公園のような保護すべき森から日本に膨大な違法木材が輸入されていることを知りました。ヨーロッパやアメリカなどの先進国はそうした課題に対し、FSCのような制度を作って環境への配慮を国として積極的に行いますが、日本はそうした課題に国として向き合わず目先の利益ばかりを追求する傾向にあることが分かりました。しかしそうした国の姿勢は結果的に自国の林業の衰退に拍車をかけることとなりました。海外から良質な木材が安価に輸入されることで、戦後に必死に先人の方々が植林し伐期を迎えた杉や檜が山側の利益にならないため全国で放置されるようになってしまったのです。

そんな中、日本で初めてFSC認証を受けた林業家の速水林業(三重県)の速水亨社長の娘の理子さんが営業としてSmilesに訪れ、当時理子さんご自身が起業して商品化を進めていた速水林業の木材を使用したプロダクトの紹介とFSC認証を受けた認証紙を紹介してくださいました。まず始めたことは、店内で配布している毎月発行するリーフレットをFSCの認証紙に変えること。次に当時設計段階だった横浜ルミネ店の床材や家具に使う木材を速水林業の檜材にすることでした。

そうした取り組みを切っ掛けに2010年頃からは、Soup Stock Tokyoの店舗作りにトレース出来る国産木材を使用する取り組みを始めました。2014年度末までに、新店や改装を含め30店舗以上にトレース出来る国産木材を指定して活用しました。この先駆的な取り組みは林業界からも注目を集め、林業関係者に対して設計側が林業の課題を理解することで国産木材の利用促進につながる可能性があることを提示出来たと思っています。

国産木材の活用を促進させるために、結果的に全国の山林を見てまわることが増えました。そのたびに、東京の飽和した市場と地方の人やサービスの枯渇した状況のギャップに違和感を覚えるようになりました。地方にはそれぞれの風土や歴史に培われた様々なコンテンツが存在するのに、それを時代に合わせて活かせる人がいないことが、停滞を加速させているのではないかと。一方で自分が東京で仕事に投じている時間は何を生み出して誰のためになっているのか。東京には自分にとって代われる人などいくらでも存在する。それなら、ディレクション出来る人の足りていない地域に入り込んで自分がSmilesで事業を立て直すためにやってきた様々な経験を活かせるのではないかと考えるようになりました。

そうした視点を持つようになってから、滋賀県の高島市という地域を知ることになりました。初めて地方に移住して仕事を作り出すのであれば、人口集積がある地域からアクセスしやすく、且つ自然環境が豊かで、地域課題にも手つかずになっている所ということを基準に起業出来る地域を探していました。2014年の5月に初めて高島市を訪ね、10月に役場の企画調整課の部長をご紹介いただき、11月にSmilesの役員会議で起業させてもらいたいという議題を上げて承認され、幸いなことに1/3の資本参加をしていただくことになり、12月に雨上株式會社(あめあがるかぶしきがいしゃ)を登記しました。

発酵するまち・高島で取り組んだ地域ブランド戦略

起業して移住した段階では何の仕事も有りませんでしたが、移住して2か月後の2015年6月に高島市の交流人口と定住人口を増やすきっかけの創出を目的とした「びわ湖高島ブランド戦略推進事業」と、農産品の販路拡大を実現することを目的とした「高島市 都市部における特産品販路開拓事業」の事業主体の公募がありました。公募された事業はもう一つ有りましたが、結果2つの公募に応募し2つの事業を請け負うことが出来ました。(後者は大阪に支社を持つランドブレイン社との共同受託)

「びわ湖高島ブランド戦略推進事業」については、市内に住む写真の愛好家や地域のコミュニティーづくりなどに関心の高い方を半年かけて集めて編集チームを作り、「高島の食と人」というプロジェクトを3年間に渡って実施しました。東京と違い高島市に住む方は、野菜や米を自分たちで作り、山のジビエ、山菜、きのこ、びわ湖の魚等を自分で採って来る食生活があたりまえで、それを価値だという認識をほとんどされていませんでした。
このプロジェクトは食を一貫した共通テーマとして食から見た暮らしの魅力を移住者の立場から切り取り、地元の方に取材していただき、オンラインやトークイベントで市内外に発信し、自らの地域の価値を再認識していただくことを目的としました。このプロジェクトは結果的に、広域な高島市内のそれぞれの集落に様々な魅力を持つ方がいることやユニークな暮らしをしている方がいることを知らしめることができたため、点と点をつなぐような広域なネットワークの形成や住民が地域を見直すきっかけとなったと思っています。

もう一方の「高島市 都市部における特産販路開拓事業」では、高島市の農業政策の見直しを含む多様なミッションがありましたが、主に私が中心となって取り組んだのは、高島市にルーツを持つ高島屋との取り組みの創出と、地域の農産品のブランド化でした。様々なプロジェクトに取り組んで来たため、事業内容の説明は割愛しますが、中でも高島屋との取り組みについては、高島市が自治体として打ち出している「発酵食」文化を現代の食卓に応用する業態の開発を行って来ました。立ち上げた事業は役所が巻き取りましたが、その過程で知り合った、高島市と大阪の鶴橋に食品加工工場を持つ株式会社班家(ぱんが)食品社と雨上社とで共同出資し、株式会社共立(ともだち)を設立し、次世代漬物「10% I am」という発酵食品ブランドの運営を行うことになりました。

こうした市内での数々の取り組みの結果、地域内の事業者さんとのつながりも増え、事業者さんの課題解決をするための仕事も受注するようになり、少しずつイメージしていた仕事の形になって行き、現在雨上株式會社は国内の様々な地域の企業や自治体の課題解決に取り組むようになっています。

高島市から島根県へ、そして大学の講師に

石見銀山まちを楽しくするライブラリー

高島市のプロジェクトを通じて出会った方々との繋がりは、現在の島根県立大学の地域づくりコースの講師としての経歴にも繋がることになりました。私が高島市に住んでいた当時、島根県立大学の副学長だった井上厚史先生(故人)は10年以上ご自身のゼミ生を無農薬で米作りを行っている高島市を代表する若手生産者の石津大輔さんの元に夏季研修として連れてきており、その縁で私も井上先生と繋がることになりました。

井上先生と出会った当時、島根県立大学は県からの要請を受け、新たな学部設立を検討していました。
現在の浜田キャンパスは、国際関係学部と地域政策学部の二つの学部構成になっていますが、当時は総合政策学部という1つの学部に全てが集約されていました。「地域で働ける人材を育成してゆくために、どのような学部を設立するのか」が議論され、新たな学部の在り方について、井上先生を中心に企画が取り纏められていました。そうした中で多様な意見を取り入れる必要が有るということで、オブザーバーとして会議に招かれるようになり、結果として現在の講師の仕事につながることになりました。

また、オブザーバーとして参加させていただいていた最中に、石見銀山のある大田市大森町の企業の中村ブレイス株式会社の中村俊郎会長から、井上先生に「町内の中心部のお屋敷が空き家になったので中村ブレイス社がその家を買い取り改装の費用も全て負担するので、県立大学が運営する施設として活用しませんか。」という大変ありがたいお話をいただきました。井上先生も是非にということでそのお話をお受けされ、図書館機能を持たせたサテライトキャンパスとしての活用をテーマに施設のプロデュースからデザイン設計までの全てを雨上社に委託していただくことになりました。
最初のお話をいただいてから4年程経た2023年4月にそのお屋敷は「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」としてオープンさせることが出来ました。
中村俊郎会長の町にかける思いには並外れたものがあり、これまでに大森町内の空家を60件以上買い取り新たな住民となる方が住めるように内外装を修繕し、水回りを全て直しその結果同社の社員の家族や町内企業の社員、最近ではそうした話を聞きつけたIターン者が移住し、3名だった地域の幼稚園の園児が2024年現在で25人まで増えています。

「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」のプロジェクトは、中村俊郎会長の「町に大学生によって新しい息吹を作り出してほしい」という強い思いが込められています。その直向きな思いを実現させるためには普段活用されていないありがちなサテライトキャンパスになってしまっては意味が無いと考え、一般の方が日常的にあるいは週末に利用するライブラリー兼カフェを学生が運営する施設として位置づけました。
しかし、単なる図書館では大森町まで訪ねて来ていただく根拠が無いため、松江市や出雲市といった人口集積地なのに、普段大森町に意識の向かないエリアにお住まいの方でも、特にお子様がいらっしゃるご家族に利用いただけるよういくつかの仕掛けを試みています。それは例えば、「絵本のどうくつ」という石見銀山の坑道(間歩)を模した、迷路のような絵本の書棚であったり、中庭に設けた水遊びの出来る浅いプールであったり、小さなお子様のいる親御さんが周りに気を使うことなく滞在できる「ファミリールーム」などです。
結果的にオープン以降施設はイメージ通りに大変多くのお客様に活用され、現在は町の一つの顔として認識されるまでになっています。2023年には「Good design賞」「島根景観賞 優秀賞」「島根住宅建築コンクール 最優秀賞」を受賞することが出来ました。

大学4年間で自分なりの基準を持つ

大学とはどのような場であるのか。正解は無いと思いますし、それぞれの解釈が有ると思います。

私は美術大学を卒業しており、卒業後もあまり一般的では無い環境で仕事をして来たかもしれません。従いまして島根県立大学という公立の大学で行っている自分の授業が客観的にみて学生のためになっているのかは定かではありません。

しかし、あえて教員という役職を託されたということは、自分が経験してきたことの中から大事だと感じていることを学生に伝えてゆく事が役目だと思っています。それが教育といえるのかは分からないのですが、意識していることは、身の回りの状況から感じ取ること、今現実に無い少し先の状況を予測して自分の頭で考えて、提案したり、対策を講じること、計画と現実に乖離が生まれた時に状況に応じて柔軟に対応すること、さまざまな経験を通して自分なりの基準を自分の中に持つこと、お世話になったら素直に感謝してお礼をいうこと、のようなことかと思っています。

私が所属している地域づくりコースというコースは地域で生きてゆく人材を育成することがテーマとなっています。マスマーケティングのような理論では解決できない、人対人の局面に求められる応用力がより重要になってくる機会が必然的に多くなってくると思われます。そういう時に少しでも大学での経験や見聞を活かしてもらえたらと思っています。

2024年度の4年生が地域づくりコースの初めての卒業生になります。私のゼミの学生の進路は職種も勤め先の地域も多岐に渡っていますが、全員第一希望の就職先に内定をいただきました。就職に関する指導はアドバイス程度にしか行っていませんが、それぞれ自分なりに対策を講じて実践してくれたのだと思います。
結局大学の先生がなんと言おうが、自分で生きてゆくしか無いので、自分の人生に責任を持って歩んで行って欲しいと思っています。