物流と不動産をつなぐビジネスは、サラリーマン時代の“逆境”から始まった
1999年、42歳でイーソーコグループを創業した大谷巌一氏。大学卒業後、18年間の会社勤めを経ての決断だった。
最初に飛び込んだのは「3K(きつい・汚い・危険)」と呼ばれていた物流倉庫業界。就職氷河期という逆風の中、狙っていた大手流通企業にはことごとく不採用。「でも、振り返ればあのとき物流業界に入ったことが、今のビジネスにつながったのですからね」と、大谷氏は他人事のように笑う。
イーソーコが展開するのは「物流不動産ビジネス」という独自領域。なぜ物流業と不動産業を掛け合わせる発想に至ったのか?
しかも、入社から1年も経たないうちに「お前は倉庫業に向いていない」と先輩に言われたという。倉庫業は荷主に依頼されたことを着実にこなし余計なことをしないのが常識であった。
だが本人は気にも留めない様子で語る。「早とちりで先走る性格なんです。教わった手順を勝手に変えたり、頼まれてもいないことに手を出したりしてしまって」
イーソーコの広報スタッフも、「まさに論語の“感即動(感じたら即、動く)”を体現する人ですね」と笑顔を見せる。
そんな“向いていない”と言われた男が、なぜ40代で物流不動産という新しい市場を興すに至ったのか。
サラリーマン時代の原体験が、後のイーソーコの原点に
【若手時代】
当時、大谷氏が担当していたのは、多品種少量の部品を保管・配送する業務。午前・午後の1日2回、出荷依頼を受けて1時間以内に発送するというスピード重視の現場だった。だが、トラックの積載率は常に半分以下。作業は現場担当者一人に頼りきりで、誤出荷も頻発。ついには荷主から大きなクレームが入る。
問題の根源は、納品先の倉庫に余裕がなく、1日2回に分けて出荷せざるを得ない構造にあった。そこで大谷氏は考えた。
納品先倉庫の天井高を活かし、ステージラックを導入。保管スペースを拡張し、1日1回の出荷に集約。これにより、積載効率が上がり、時間的余裕が生まれ、誤出荷も激減し物流の効率化にもつながった。
荷主からは高く評価されたが、会社側からは売上減として冷ややかな目を向けられた。
しかし、2年後の契約更改時、大谷氏の改善策は実を結ぶ。他倉庫に分散していた荷物が自社倉庫に集約され、保管貨物は倍増。「ピーター・ドラッカーが“物流は最後の暗黒大陸”と語ったように、物流業界が成長の余地が大きな業界だと実感した経験」と、スタッフも語る。
【30代前半】
30歳を目前に、父親の作った借金5,000万円の肩代わりを余儀なくされる。昼間は会社勤めを続けながら、夜は自宅の車庫スペースを教室に改装し、英語学習塾を開業。
ちょうど第二次ベビーブーム生まれの受験時代、進学塾は隆盛期を迎えていた。
だが彼の狙いはニッチだった。
「勉強嫌いの子に特化して、授業料も安くしたんです。教科書を丸暗記させるスタイルで、30点以下の子が70点に。成功体験で勉強好きになり、成績全体が上がりました。けど、成績が上がると他塾に移っていく子も多かったですね(笑)」
この経験は、単なる副業では終わらなかった。
スタッフは語る。「塾の経営は、大谷にとって“起業前の修業”だったんです。未知の分野でも、自分なりに勝負する。その戦略眼と経営感覚が後に活きた」
まもなくして時代はバブルの最盛期。不動産が一大産業として急成長を遂げ、物流倉庫会社が子会社で不動産業を始める動きが出てきた。ここで物流と不動産、二つの業界の融合という大谷氏の“ひらめき”が形になっていく――。
物流不動産業への歩み “非常識”を突破口に変えた、現場発のアイデア
【入社7年目、営業部門に異動】
入社7年目、大谷氏は営業部門に異動となり、係長に昇進。部内の先輩は全員10歳以上年上。会社が若手に責任を託すほどの期待を寄せていたことがうかがえる。
ちょうどその頃、大口荷主から契約解約の連絡が入る。倉庫の一角が突然大きく空くという一大事態。先輩たちは新規荷主の開拓に奔走したが、1か月が過ぎても契約は決まらず。ついに部長から大谷氏に「何とかしろ」との直接指令が下された。
大谷氏が導き出した結論は、空いたスペースを「賃貸物件として貸し出す」という、いわば“倉庫業に不動産業の視点を取り入れる”というものだった。従来の貨物の保管場所を生業としてきた物流会社にとっては場所を賃貸するタブーとも言える提案。しかし、部長は「空いたままよりはマシだ」と承諾した。
この“倉庫スペースの収益化”という発想は、後にイーソーコビジネスの原点となるアイデアであった。
当時、大谷氏は業界の動きにも敏感だった。「運送会社が倉庫機能を内製化しようとする流れ」を体感的に捉え、ターゲットを運送会社に設定。募集チラシを作り、飛び込み営業をかけていった。
だが、ここで思わぬ落とし穴が待っていた――。
【拙速な判断、そして大トラブル】
反響は上々。5社から申し込みがあり、そのうちの1社・A社と契約交渉に入る。他の4社には丁重に断りの連絡を入れた。
ところが、断ったB社が激怒。「商売の基本も分かっていないのか」と強い抗議を受けた。B社はすでに他の契約を打ち切り、新たな取引に向けた社内体制を動かしていたという。
「もし倉庫を貸せないなら損害賠償も辞さない」と、訴訟寸前のクレームに発展。
大谷氏は慌ててA社に事情を説明し、交渉の中断を依頼するも、A社もすでに社内で準備を進めており同様の状況。完全なるダブルブッキングだった。
「拙速だった。あれは大きな失敗だった」と、振り返る大谷氏。だが、彼はここで立ち止まらない。
【逆境からの大逆転】
「各所の倉庫に出入りしているトラックドライバーなら倉庫の空き情報に詳しいはずだ」と考えた大谷氏は、毎日現場を回って情報収集を続けた。
そしてついに、「●●の倉庫が新築で1棟まるごと空いている」という情報を入手。その足で倉庫会社に駆けつけ交渉。●●側も即OK。すぐさまB社に話を通し、無事に代替倉庫を確保。危機はぎりぎりのところで回避された。
だが、それで終わらせないのが大谷氏。
「再寄託(他社倉庫に委託)で5%の差益を得る」倉庫業のスキームを応用し、新たに契約した倉庫を5%上乗せした賃料でB社に再貸し出す“マスターリース方式”を提案。B社もこれを了承した。
結果として、会社の収益は拡大し、大ピンチを逆転満塁ホームランで切り抜けた。
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こうした一連の経験が、「物流」と「不動産」を融合したビジネスモデルの着想を形にし、42歳での独立、そしてイーソーコ設立への道を切り開いていったのだった。
こうして大谷氏は42歳での独立:イーソーコ設立に、道を敷いたのだった。

辞職・起業に際しては物流倉庫会社のトップから君に辞められると営業がいなくなるという理由で独立を認める代わりに営業業務は引き続き行うことの条件を提示された。大谷は物流倉庫会社のサラリーマンとイーソーコの経営者という二足草鞋という特殊な環境で働いた。
思い返すと物流倉庫のトップは大谷を信用してくれていたことにありがたく感謝している。
本来であれば物流倉庫会社のトップも「物流不動産ビジネスの将来は理解していた。しかし長らく倉庫業界に身を置き要職を務め斯界での影響力もある立場上、不動産業には簡単には踏み切れない」という思いがあった。
大谷氏は「終身雇用時代は終わった」と確信する。
実績を残している社員を経営者にし「資本と経営の分離」を大前提に、「多くの社長を創出して、社員に夢を持たせるべき」という持論のもとグループ経営の道を歩み続けている。
