君の椅子プロジェクト_磯田憲一代表に訊く:職人の技と命の物語が刻まれる「君の椅子」

「新しい命に、世界に一つだけの椅子を」。そんな思いから、「君の椅子プロジェクト」は2006年に北海道で産声を上げました。

プロジェクトに賛同する自治体で生まれる全ての新たな命に贈られる「君の椅子」には、名前と誕生日が刻まれます。そして、子どもの成長とともに思い出や傷が重なり、唯一無二の存在へと変わっていきます。旭川家具の職人たちが手作りするこの椅子には「生まれてきてくれてありがとう」「君の居場所はここにあるからね」という感謝の気持ちが込められ、家族とともに、その命の成長を見守り続けています。

プロジェクトを率いる磯田憲一さんは、行政の仕事に従事してきた経験から「地域のために何ができるか」を常に考えてきました。「地域に根ざした発想と手作りの椅子を通じて命の大切さを伝えたい」という思いが、20年近くに渡る挑戦を支え続けています。

また、東日本大震災の際には、震災当日に生まれた子どもたちへ「希望の君の椅子」を届けたというエピソードも、磯田さんの心に残る出来事として語られました。「『生まれてきてよかった』と思える瞬間が訪れるように」という願いを込め、プロジェクトが届けてきた数々の椅子には、命への深い敬意と想いが込められているのです。

君の椅子プロジェクトは、単なる商品ではなく、命への祝福そのもの。今後もこの取り組みが、新しい命の居場所を示す存在として続いていきます。

磯田 憲一 さん

君の椅子プロジェクト 代表
(公財)北海道文化財団 理事長

旭川市立大学 客員教授

1945年旭川市生まれ。1967年に明治大学法学部卒業後、北海道庁入庁。

以後、一貫して北海道人の視点で地域の振興に取り組む。北海道政策室長、上川支庁長、総合企画部長を経て副知事となり、2003年に退任。在職中は、北海道文化振興条例制定や、行政の無謬性神話を打破する契機となった「時のアセスメント」の発案、BSE(狂牛病)問題対策本部長として日本の標準となった全頭検査と一次検査公表などを手がける。2006年から、誕生した子どもに椅子を贈るプロジェクト「君の椅子」に取り組む。2014年に第6回日本マーケティング大賞地域賞、2015年春の叙勲で瑞宝中綬章、同年9月、第37回サントリー地域文化賞をそれぞれ受賞。2022年に第73回北海道文化賞受賞。

編著書に 「遥かなる希望の島~『試される大地』へのラブレター」、「3.11に生まれた君へ」。

・(一財)HAL財団(旧 農業企業化研究所) 理事長

・学校法人北工学園 理事長

・安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄 館長

地域と命をつなぐ「君の椅子」誕生の背景にある磯田代表の想い

―― 「君の椅子プロジェクト」が始まった経緯やきっかけについて教えていただけますか。

君の椅子プロジェクト代表 磯田憲一さん:私は旭川市立大学で数年間、特任教授を務めていました。大学の教授として教壇に立つことのできる経歴ではありませんでしたが、当時の学長から「行政機関で培った経験を活かし、学生たちに現実的な話を語ってほしい」と依頼され、大学院で小さなゼミを担当することになったのです。このゼミで学生たちとの対話を重ねる中で生まれ、形となった取り組みが「君の椅子プロジェクト」です。

きっかけは、ある時、秋田県大仙市(旧大曲町)で開かれる「大曲の花火大会」を見に行ったゼミの学生が、その迫力に感動し、熱心にその素晴らしさを語ってくれたことでした。私も大曲の花火が花火師たちの憧れの場所であることは知っていましたが、実際の素晴らしさを体感したことはありませんでした。しかし、学生の熱意から、人口数万人規模の町で開催される花火大会がどれほど人々に感動や力を与えているかが伝わってきたのです。

その時、私はふと北海道の小さな町のことを思い出しました。人口わずか3,000人ほどのその町では、四半世紀ほど前から、新しい命が誕生すると一発の花火が打ち上げられ、誕生を祝う風習があったのです。大曲の花火大会も素晴らしいものですが、その一発の花火にも、町の温かな思いが込められていると感じました。

また、当時は子どもの人格・人権が脅かされる事件や問題が多発していた時期でもあり、私は学生たちに「命の誕生を花火で知らせるこの町の取り組みに学び、私たちにも何かできないか」と提案しました。小さな取り組みだとしても、地域の力を活かし、社会的な課題に向き合うことが大切だと思ったのです。

さらに旭川地域には「旭川家具」に代表される、日本でも高い技術を誇る家具職人の存在だけでなく、家具の素材としても優れた広葉樹が豊富にあります。こうした地域資源を活かし、子どもの命に寄り添う提案をしたいと考えた私は、実は最初から椅子に着目していました。

ただの記念品でなく「椅子」であることに意味があるという考えのもと、学生たちと議論を重ねる中で、最終的に「新しい命に小さな椅子を贈る」というプロジェクトが形となったのです。このような経緯で、君の椅子プロジェクトは始まりました。

旭川大学大学院のゼミ

―― 確かに、時代とともに子どもを取り巻く環境は変化していますね。


磯田さん:「子どもは地域社会の宝だ」「地域全体で子どもを守ろう」という考え方は、日本がまだ貧しかった時代から根付いているものだと思います。

かつては、子どもが周囲に迷惑をかけるようなことがあれば、親でなくてもその子を叱ってくれる隣近所のおじさんや、母親のように見守ってくれるおばさんがいました。個々の家庭は貧しかったかもしれませんが、地域全体で子どもを支え、その命を守っていたはずです。

しかし、現代のような豊かな社会では「向こう三軒両隣」のような関係性が失われ、悲しい事件が増えています。親が自分の子どもに手をかけるなど、数十年前には想像もできなかったことです。

子どもの命は、すべての社会活動の基盤です。子どもたちの健やかな成長を少しでも支えられる取り組みを、旭川地域や北海道が持つ潜在力を活かして実現できれば、素晴らしいものになるのではないかという強い思いを持っていました。

その結果として椅子という形にたどり着き、プロジェクトを「君の椅子」と名付けました。実は、将来的なことも見据え、7ヶ月から8ヶ月ほどかけて商標登録も取得しています。君の椅子という名前が、プロジェクトの固有名詞として定着すると考えていたのです。

町から全国へ ─地域力と個々の思いがつながる「君の椅子」

―― 現在は個人も参加できる君の椅子プロジェクトですが、初期は子どもが誕生した家庭に行政から椅子をプレゼントする活動だったと伺いました。

磯田さん:その通りです。そもそもこのプロジェクトは、私が学生を連れて地域の町村長が集まる会合に出席し、「こういった取り組みを地域社会に提案したい」と相談したことが始まりでした。

小さな町や村は、「向こう三軒両隣」という地域社会の象徴のような存在です。今では失われてしまった「向こう三軒両隣」の関係を再び取り戻そうと、まずは小さな自治体に提案しました。

すると、最初に手を挙げてくれた自治体があり、2006年からプロジェクトが本格的に始まりました。翌年には2つ目、3年目には3つ目の自治体が参加し、徐々に広がっていったのです。

―― どのような経緯から、個人も参加できるかたちになったのでしょうか?


磯田さん:プロジェクトの発端となった発想は「向こう三軒両隣の地域力を取り戻す」というもので、当初は個人向けの仕組みを用意していませんでした。しかし、取り組みが報道などを通じて全国に広まるうちに「私もぜひこの椅子がほしい」という声を個人からもいただくようになりました。新しい命を迎えた喜びや愛おしさは、自治体だけでなく、個人にとってもかけがえのないものですよね。

そこで、2009年の秋に「君の椅子倶楽部」という仮想の自治体のような仕組みを作りました。君の椅子倶楽部という町があると想定していただければ、わかりやすいと思います。全国どこからでも地域の枠を越えて参加できる仕組みで、倶楽部のメンバーになれば、新たな命に椅子を贈ることができるようにしたのです。

現在、君の椅子プロジェクトは二本立てで展開しています。一つは地方自治体としての取り組み、もう一つは君の椅子倶楽部を通じ、「新しい生命」の元へ届けるという仕組みです。

―― 最初に君の椅子プロジェクトに手を挙げられた自治体についても、詳しく教えてください。

磯田さん:最初にプロジェクトを展開したのは、旭川市に隣接する東川町でした。当時の町長に「こうした取り組みを始めたい」とお話ししたところ、非常に感受性豊かな彼は、子どもの命の大切さを自治体経営の中で考えることに深く共感してくださいました。そして「来年から我が町でぜひやりたい」と手を挙げていただき、2006年に東川町でプロジェクトがスタートしました。

翌年には「絵本の町」として知られる剣淵町の町長が手を挙げてくださり、2つ目の自治体として加わりました。3年目には花火の打ち上げボランティアチームがいる愛別町が加わり、君の椅子プロジェクトは少しずつ広がっていったのです。

旭川家具の職人たちへの敬意

―― 君の椅子は、旭川地域の家具職人の方々が作っているんですよね。

磯田さん:そのとおりです。旭川地域には、日本を代表する「旭川家具」があります。旭川家具は旭川市だけでなく、東川町や東神楽町にも広がる工房や法人経営の家具会社が作り出す家具の総称です。これらの町が連携し、地域全体で旭川家具としてブランドを築いているのです。

旭川地域は家具職人の技術や教育が蓄積され、その力を活かすための環境も整っているため、全国から家具職人を目指す若者たちが集まってくる場所です。私は門外漢ながら、この地域の潜在力を生かしたいという思いを持っていました。

君の椅子は、東川町、旭川市、東神楽町に点在する工房が手を取り合い、家具職人の皆さんがもつ技術を活かし、子どもたちのために一生寄り添う椅子を制作しています。生涯大切にできる椅子を届けられるのは、旭川家具の職人さんたちの卓越した技術と、地域が持つ潜在力のおかげです。

―― 磯田さんは、以前から家具職人さんたちとのつながりをお持ちだったのでしょうか?

磯田さん:少数の職人さんとは、以前からお付き合いがありました。また、旭川地域には優れた家具職人が大勢いらっしゃることも知っていたので、実際に会ったことがない方にも、その技術力への信頼を感じていました。

特に、最初から関わってくださっているのは、東神楽町にある「匠工芸」という家具会社です。匠工芸は旭川家具の中でも大手の一つで、経営者である桑原さんは、本当に素晴らしい家具職人です。彼は今から50年以上前、技能五輪国際大会の家具部門で世界第2位に輝き、その後匠工芸を立ち上げました。

桑原さんは私の構想に共感し、「ぜひ一緒にやりたい」と言ってくださいました。後で知ったことですが、彼が特に共感してくれたのは、私が語った「旭川家具のブランドを支えているのは、名もなき職人たちだ」という考え方だったそうです。

家具作りは、非常に大変な仕事です。家具職人の方々は、日々努力して技術を高めることで旭川家具のブランドを守り続けています。家具は長く使えるものである一方、特に旭川家具は高品質ゆえに額面だけを見れば高価に映るため、必ずしもすぐに売れるわけではありません。そのため、職人たちの所得水準は決して高くはないことが多いのが現実です。

社会活動では「ボランティアとして」や「安価にできないか」という話がよく挙がりますが、君の椅子プロジェクトでは、決して「安く作ってほしい」とは言いませんでした。

このプロジェクトには、二つの柱があります。一つは「子どもの命に寄り添うこと」、もう一つは「職人たちの技術に対する敬意」です。職人たちが長年積み上げてきた技術を尊重し、相応の対価を支払うことでその技術を支えることも、このプロジェクトの重要な目的なのです。

桑原さんも、このような産業振興的な視点に深く共感してくださったからこそ、長年一緒に取り組んでこられているのだと感じています。

女性の職人も活躍

今ここで、今自分にできることを。縦社会から逸れた一本道を歩く

―― 磯田さんは、行政職員としての経験もお持ちです。その多岐にわたる経歴が君の椅子プロジェクトにもつながっているのでしょうか?


磯田さん:そうですね。日本の行政機関は、霞が関を頂点とする縦社会のピラミッド型構造です。地方自治といっても、実際は中央からの強いコントロールのもとにあります。国の省庁、都道府県、市町村という階層で動いており、昔の行政機関には「国の仕事をお手伝いする」という意識が強かったと感じています。

ただ、地域には独自の自治も必要です。地域社会を守るためには、時には中央集権の体制に異議を唱え、地域の現状に即した決断をすることも大切なのです。

私自身、組織の中では少数派の意見を述べることが多くありました。北海道が持つ潜在力を地域の誇りとして発揮するためには、中央の枠にとらわれていてはいけません。私には独自の発想で仕組みを作りたいという思いがあり、その中で「子どもに寄り添う仕組み」も重要だと感じていたのです。

このような経験を経た私の役割は、上からの指示に従うだけでなく、自分たちの足元にあるものを見つめ、その力を活かすことだと考えるようになりました。学生たちにも、地域社会の一員として「地域の誇りを育てることができるんだ」という実感を持ってもらう経験が、教育の一環として有意義ではないかと思います。

一般的な大学教育や大学教授の方々とは少し違うかたちかもしれませんが、私の発想のベースは、社会の一員として学生たちと共に地域のために「本物の知恵」を生み出すことです。

もちろん霞が関の視点も、国全体を考える上では非常に重要です。しかし、地域の発想から生まれたものでなく、縦社会で生まれる仕事は、どこか受け身で形式的なものになりがちです。「地域社会の発展が国の発展に繋がる」という地方分権的な視点も、非常に大切だと感じています。

君の椅子プロジェクトは、北海道の潜在力を活かし、地域ならではの仕組みを独自に発信しているところに大きな意義があります。こうした取り組みを通じて自分たちの地域に誇りを持ち、自主的に行動できる市民が育つことは、これからの社会にとって非常に重要だと思います。

少し大袈裟かもしれませんが、各地域がそれぞれの特性を生かし、独自のアイデアで課題解決に取り組むことができれば、それらが積み重なり、結果的に国全体の力が高まるのではないかと期待しています。

―― 国からの指示に唯々諾々の方からは、君の椅子プロジェクトの発想は生まれませんよね。

磯田さん:そうですね。君の椅子プロジェクトは特別なことをしているわけではありませんが、人生で出会ったいくつかの言葉が私を突き動かしてきました。

行政機関では、どこかに偏った対応をすると批判が生まれてしまうため、「公平性」が非常に重視されています。その結果、「公平のためには何もやらないことで一番バランスが取れる」という考え方に陥ってしまうこともあるのです。

しかし、市民として地域で生きるには何が大切かを考えるとき、アメリカ初期の大統領セルジオ・ルーズベルト氏の「今いる場所で、今持っているもので、今できることをやりなさい」という言葉が心に響きます。

私は北海道の一地域に立っているだけなので、日本全国に影響を及ぼせるわけではありません。しかし、今ここで、今自分にできることをすることが、地域社会の一員としての役割だと感じています。

君の椅子プロジェクトも一隅を照らす程度の小さな取り組みかもしれませんが、子どもの命を慈しむ気持ちは世界共通であり、この思いこそ、プロジェクトが約20年続いてきた理由だと思っています。子どもとどう向き合い、その命をどう健やかに守るかということは、日本全体、さらには地球全体の課題ではないでしょうか。

少子化対策に「異次元」という言葉が使われ、問題の重要性が強調されていることは確かですが、子どもたちに寄り添う仕組みが本当に整っているかというと、まだまだ悲しい事件や課題が多いのが現実です。

私たちは、大きな政策に関わることはできません。しかし、限られた力と素材で何ができるかを精一杯考え、多くの方々の協力を得て、君の椅子プロジェクトという一本道を細々と、しかし揺るぎなく続けていることに意味があると信じています。

「生まれてきてくれてありがとう」。3.11の子どもたちにも祝福を

―― 一番初めに君の椅子をプレゼントされた子どもたちは、もうすぐ20歳になりますね。

磯田さん:そうですね。2006年に生まれた子どもたちが東川小学校に入学した頃は、教室の半分ほどの生徒が君の椅子を持っていて、翌年には教室の生徒全員がこの椅子を持つようになりました。

このプロジェクトで私が伝えたかったことは、「新しいものが良い」とされがちな今の社会において、あえて「一生使い続けられるもの」を贈ることの意義です。

家電製品は、経済の循環のために10年ほどで壊れるように作られ、次々と新しいものに買い替えられることが普通です。子どもの頃に贈られたものを生涯大切に使い続ける機会は、今ではほとんどなくなっていると感じます。

子どもたちが君の椅子をどのように扱うかは自由ですが、大切に思ってもらえたのならば、修理を重ねながらも生涯寄り添える椅子になるよう、素材やデザイン、そして職人の技術を用いてしっかりと作られています。こうして、その椅子は簡単に捨てられない存在になっていくはずです。

言い換えれば、「古くなることを恐れない椅子」とも言えるでしょう。新しさだけが価値ではなく、椅子に思い出が染み込み、使い込んだ汚れや傷が家族の歴史を物語るようになれば、それはまさに生涯を共にするにふさわしい椅子です。これは、「新しさ」だけが価値とされる経済社会とは異なる考え方ではないでしょうか。

これからの高齢化社会において、古くなるものを大切にする心を育てることは大切だと思っています。子どもたちに「古いものを大事にしなさい」と教え込むつもりはありませんが、いずれその価値に気づくときが来るはずです。その気づきのために君の椅子を子どもたちに届け続けたいというのが、プロジェクトに関わる私たち全員の思いです。

―― 2025年で20周年を迎えられますが、これまでの約20年を振り返ると、特に印象的なエピソードはありますか?

磯田さん:このプロジェクトに10年以上参加している町では、例えばその町で生まれた小学1年生の子どもたちは、全員が君の椅子を持っています。6年から7年経った椅子についているそれぞれの汚れや傷は、その子の成長の軌跡そのものです。同じ椅子でもすべてが異なる表情を持っています。

たとえどれほどの資産がある人でも、新品の椅子を提供することはできても、その椅子に汚れや傷を刻み、思い出を宿すことはできません。君の椅子プロジェクトは、この「唯一無二の汚れや傷」を含む椅子を贈り続けたいという思いで19年歩んできました。

そんな私たちにとってエポックとなった出来事は、2011年に発生した東日本大震災です。予想もしなかった大災害によって多くの命が失われ、日本中が悲しみに暮れる中、私たちも追悼の日々を過ごしていました。しかし、震災後の5月末から6月頃に、ふと考えたのです。「3月11日のあの日にも、被災三県では新たな命が生まれていたはずだ」と。

その年の3月11日に生まれた子どもたちが1歳を迎える頃、被災地のご家庭はどんな気持ちでその日を過ごすのだろうかと想像しました。カーテンを閉め、鍵をかけて静かに過ごし、誕生日を祝う気持ちにはなれないかもしれません。そう考えているうちに、「3月11日を鎮魂の日であると同時に、将来、心から『おめでとう』と思える日になってほしい」と願うようになったのです。

そこで、君の椅子プロジェクトでは、3月11日に生まれた子どもたちのために何か小さな役割でも果たすことはできないかと考えました。私たちは独自に調査を始め、約5ヶ月かけ、被災三県にある128の自治体すべてに「3月11日に、あなたの町では何名の新しい命が誕生しましたか?」と尋ねる手紙を送り、新しい命の誕生を君の椅子で祝福したいという思いを伝えました。

返信を頂くことは難しいかもしれないとも思っていましたが、127の自治体から回答があり、最終的に104名という事実を確認できました。この「104」という数字は、日本の大手放送局や新聞社も知り得なかった数字だと思います。

ただ、104名分の椅子を作るためには子どもたちのファーストネームも必要だったため、さらに自治体にお願いし、最終的に100名の名前を教えていただけました。時間はかかりましたが、2011年12月12日を皮切りに、約2か月半かけ、全ての椅子を届けるために被災三県を回りました。

この年に作った椅子は、特別な意味をもった「希望の『君の椅子』」として、震災の最中に生まれた子どもたちのために特別仕様で作りました。この出来事は君の椅子プロジェクトを広く知っていただくきっかけになったように思います。

現地では、遠方から椅子を届けにきた私たちを不思議に思った家庭もあったかもしれませんね。それでも、長年続けてきた君の椅子プロジェクトが、未曽有の災害にもささやかな役割を果たせるのではないかと感じました。この取り組みは、19年の歴史の中でも特に心に残る出来事です。

震災から約13年が経ち、東北で希望の君の椅子を受け取った子どもたちも、もうすぐ高校生です。実は、彼らが5歳になった頃、1県につき1家族を北海道に招待し、3月11日生まれの子どもとそのご家族、合計15名ほどの方が北海道を訪れてくれました。

3月11日に生まれたことで、複雑な思いを抱えていたご家族もいらっしゃいました。あるお母さんは、「この子は一度も『おめでとう』と言ってもらえなかった。でも、北海道の方からこの椅子をもらい、生まれてきてよかったと思えるようになりました」と涙ながらに語ってくださいました。

3月11日の誕生日で出生届を出したことに後ろ向きな思いを持っていたお父さんも、「この子が生涯持ち続けられる椅子をいただけて本当に嬉しい」と話してくださいました。このように、19年の間に心に残る多くの経験を積み重ねてきたと感じています。

全ての命に感謝を込めて君の椅子プロジェクトを未来へ

―― これからも、君の椅子プロジェクトを続けていけそうですか?

磯田さん:続けていきたいと思っています。君の椅子に込められた思いは、私たちが想像していた以上に新たな命を迎えた人々の心に響いていると感じています。私自身もそうですが、新しい命に接すると、その愛おしさがより一層わかるものです。

もちろん健やかに生まれてくる命だけでなく、不妊治療を経てようやく授かった命や、障害を抱えながら生まれてきた命も、すべてが愛おしい宝です。このプロジェクトは、生まれてきてくれたことへの感謝のもとで続けてきました。今後も継続し続けることが大切だと思っています。

また、君の椅子に込められている「生まれてきてくれてありがとう」という気持ちや「君の居場所はここにあるよ」というメッセージに共感してくださる方が、少しずつ増えてきているとも感じます。

私たちは、この椅子をインテリア商品として扱ってはいません。デザイン性やブランド価値に着目して是非購入したいと言ってくださる方もおられますが、これまで一切販売したことはありません。

この椅子は、新たな命が生まれて初めて作り始めます。在庫というものはありません。子どもの名前と誕生日が決まって初めて職人に制作を依頼するため、お届けまでに2ヶ月から3ヶ月ほどお待ちいただいています。

依頼を受けた家具職人がその子のために一脚ずつ手掛け、名前や誕生日が刻まれるこの椅子は、職人の原点とも言える手仕事で作られます。こうした仕組みを守り続けることが、私たちの使命だと思っています。こうした思いを、私たちスタッフだけでなく、皆さまにもご理解いただけると嬉しいです。

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