「森林水文学」という学問分野をご存知でしょうか。水や物質が森林の中でどのように循環しているのかを明らかにする学問であり、気候変動や環境汚染などが問題視される現代において注目される分野です。環境保全はもちろん、災害の防止や生物多様性保全など、さまざまな機能を担うことが森林には期待されています。
今回、公立千歳科学技術大学理工学部応用化学生物学科で、森林水文学や小水力発電の研究をされている井手淳一郎准教授に、研究を始めたきっかけやその面白さについてお話を伺いました。

井手 淳一郎 先生
公立千歳科学技術大学
理工学部 応用化学生物学科 准教授
◆農学博士(九州大学)
◆専門分野
水文学、水質化学、安定同位体解析、超高分解能質量分析法による環境解析
◆現在の研究テーマ
超高分解能質量分析法を用いた森林の有機物動態の解明、安定同位体解析を用いた流域における窒素・リンの動態把握、遠隔地域における小水力発電の持続可能な管理・運営に関する研究
きっかけは研究室の雰囲気で

――先生はなぜ森林水文学の研究を始められたのでしょうか。
出身が福岡で九州大学に入学したんですが、僕が入学した当時は分子生物学という分野が盛り上がっていて、最初はそれをやりたいと思っていたんです。でも周りに分子生物学をやりたいという学生がとてもたくさんいて、「なんか他の人と同じことやるの嫌だな」っていう天邪鬼的な根性でどんどんマイナーな方に進んでいってたんですよ。
それでも、なんとなく小さいことより大きいことを扱いたいなという想いがあって、「じゃあ森林は大きいから森林科学良いよなあ」って、最初はそんな感じで選んだんです。森林科学の中でも化学系とか生物系とか細かい分野があるんですが、僕は有機化学が結構得意だったので、はじめは有機化学の研究室に出入りしていました。ただ有機化学研究室って芳香族化合物 の臭いが漂っていて、その臭いがあんまり得意じゃなかったんですよね。ちょっと体に悪そうな感じで…。せっかくの森林科学だから、さわやかな中でやりたいなって思ったんです。
それで、またいろんな研究室を見て回った中で、大学の附属演習林にある研究室が良いなと思いました。森林科学の研究室の中でもちょっと離れたところにあって、山の中に研究室があるんですよね。すぐに外に出て調査できるような環境で、田舎なんですけど。その学問分野が良かったというわけではなくて、先輩方がすごくイキイキしていたんですよ。一番自主的にやっていたというか、先生たちはそんなに手を出さずに学生にすべてを任せる感じで。それで「あ、この研究室いいな」って思ったという経緯です。そんなふうに学生が自分からいろいろ装置を作ったり観測をやったりする研究室は他になかったんで、はっきり言って先輩を見て決めた感じですね。
そのときは森林水文学って何なのか実はよくわかっていなくて、その研究室に入ってから水循環や物質循環についての研究なんだなって、やっと知りました。そしてやっていくうちになんだか面白い学問だなと思うようになりました。

九州ではヒノキ林を研究
――九州だとすごくスギ林が多いですよね。
そうなんです。九州で森林科学の研究をやると、自ずとやっぱりスギ林やヒノキ林が対象になっちゃうんですよ。僕は学生の頃はずっとヒノキ林を対象に研究していました。ヒノキ林の近くにはスギ林もたくさんありました。だから、演習林に行くようになって1年後には花粉症になっちゃったんです。
ヒノキ林とスギ林は結構特徴が違うんです。これは森林科学ではよく知られた話なんですが、1ヘクタールとか10ヘクタールくらいの小さな森林流域で比べると、ヒノキ林の方が雨が降ったときに河川の水が濁りやすいですね。土壌からの栄養の流出もヒノキの方が多いです。落ち葉の分解のされ方で違いが生まれるんです。ヒノキもスギも間伐していないと森林の上の部分(林冠)が閉鎖されて林内が暗くなります。そうすると下層植生が貧弱になるか、生えないですよね。ただスギの場合は分解されずに残った落ち葉で森林土壌が守られるんです。一方、ヒノキの場合は葉が落ちた後にバラバラになって細かくなる。通常、他の樹種の森林では、土壌の表層に落ち葉が堆積して「リター層」っていう層ができるんですよ。ところが、ヒノキでは落ち葉がバラバラに細分化されて、それができないんです。下層植生もリター層もない状態のところに雨が降ると、雨粒が直接土壌に当たって、土壌が飛び散って土砂が移動して河川に流れていく。そういうメカニズムでヒノキ林の方が水が濁るんですね。
それから、雨が降ると土壌が締め固められるので、雨が浸透しなくなっていくんですよ。雨撃層っていうのができて、もうカチカチになります。その上を雨が流れていってしまうんですが、通常は落ち葉などがあるので表面を流れる水ってまず発生しないんですよね。だけどヒノキ林はそういう理由で特別で、表面流ができて水の勢いが増すんです。
だから雨が降るとヒノキ林では水が増水しやすく濁りやすい。小さなスケールで見るとそういうことになります。適宜間伐をして管理していれば、下層に植生が入るのでそういうことにはならないんですけどね。今は間伐のための補助金があるとはいえ、放置されているヒノキ林がまだまだいっぱいあるので、そういうところから濁度の高い河川が形成されてきます。
――流れ出る窒素やリンなどの量もスギとヒノキで違いがあるんですか。
あると思いますね。ヒノキの方が粒子状のものが雨のときにたくさん出てくると思います。大抵、栄養は土壌表層に集中しているので、ヒノキ林ではどんどん流れ出てしまいます。一方スギ林は土壌の浸透能が高いという観測結果も研究論文によってはあるんですよ。だからヒノキ林に比べれば流れ出さないと考えられます。

――では広葉樹の森林ではどうなんでしょうか。
広葉樹は僕も現在研究しているところなんですけれども。100ヘクタールくらいまでの規模の森林流域だったら、やっぱりおそらくヒノキ林よりも広葉樹林の方が栄養は流出しにくいと思います。間伐したあと、稚樹や自然に落ちた種子からまた樹が生えて森林が再生されている天然更新の広葉樹林なら、下層植生もあって複層化してるので林内も真っ暗じゃないだろうし。そうすると、やっぱりヒノキ林の方が水は濁りやすいかな。
ただ、僕もヒノキ林ってそんなに悪者なのかなと思ってずっと研究していたんですけど、その中でわかったのは、もっと観測のスケールが大きくなると樹種は関係が無くなるということです。流域面積が900平方kmのようなスケールになり、森林以外に農地や市街地のような土地利用も入ってくると、上流域がヒノキ林だろうが広葉樹林だろうが下流河川の水質には樹種の違いによる影響はそこまででないんですよ。
もっと言えば樹種が何かということより、農地があるかどうかが響いてきますね。流出する栄養塩の総量は、河川流域に占める面積割合の関係から、森林から出る栄養塩の方が農地から出るものより多いと思います。ただ、雨が降ったとき、森林は河川の栄養塩の濃度を希釈する方向に働くんですよ。でも農地は濃度を高めるんです。肥料を撒くし、森林より農地の方が侵食されやすいので。だから樹種の違いで流出量が変化するというよりは、農地があるかどうかの方が影響が大きいということですね。
――やっぱり下流域で農業をやる人にとっては、上流に森林があると栄養が流れてきて良いこともあるのでしょうか。
論理的に推理するとたぶんそういうことになりますよね。
漁業においても同じことが言えるかもしれません。溶存有機物って金属と結びつきやすいんですが、たとえば牡蠣が育つには鉄が必要なので、森林から鉄と結びついた溶存有機物が流れてきて牡蠣が育つのかもしれない。
――牡蠣や海苔の名産地なんかは、源流から海までのところで人間活動が盛んに行われているのかもしれないですね。
そうだと思いますよ。特に海苔には窒素が必要なので、養殖の為にわざと窒素を流すこともあります。だから水が綺麗すぎるのも海洋生物にとって良くないんでしょうね。汚すぎるのももちろん漁業にダメージを与えるんですけど。結局バランスが大事ですよね。
――過ぎたるは及ばざるがごとし、ですね。
九州から北海道へ

――井手先生は今は北海道で研究をされていますが、九州にあるような森林は北海道にはないですよね。どういった森林で研究をされているのですか。
今はそんなに手入れをされていない針広混交林を対象にしています。九州にいた際に研究対象としていた森林は年中常緑の針葉樹林なので下層以外はあんまり変わらなくて面白くないんですけど、北海道はやっぱり劇的に変わりますね。冬は雪に覆われて葉っぱもないけど夏は密林みたいになる。変化が1年の間で急激に起こるので、当初はこんな場所があるんだって思いました。変わりすぎ!って(笑)。今なんとかしてその季節性を捉えたいと思っているんですけど、なかなか観測がうまくいかなくてあまり研究が進んでないですね。
そもそも土壌が九州と違うんですよ。北海道で研究対象としている森林の土壌は基本的に火山灰土なんですけど、軽石層なんかがあって結構複雑になっているんですよ。僕と同じ場所で研究している方が、この複雑な構造に水を保持する効果があるんじゃないかと考えておられるんですが、そうすると流出の仕方も変わってきますよね。九州で研究していたときと全然流出特性が違っていて、興味深いです。先行研究にも火山灰土で水や有機物の流出を調べているものがあまりなくて、しっかりやったら面白い結果が出るんじゃないかな。
――樹種によってどんな有機物が流出するか変わってくるのですか。
違うと面白いんですけどね。それを今調べようとしています。大まかに針葉樹と広葉樹で違うのかなと思っていますね。あとは平成30年に地震のあった厚真町で、崩壊地を含む流域と森林でおおわれた流域を比較していて。森林地域ではすごく土がジメジメしていて、水がちょっと茶色っぽいんです。でも崩壊地を含む場所は、森林がなくなって土地が開けているので水が透明に近いんですよ。水の中の有機物濃度って炭素の濃度で調べるんですけど、全然違うんです。
あと、今着目しているのが成分です。水に溶けている有機物を溶存有機物というんですが、溶存有機物を構成している分子化合物を調べる分析機器があって。それで見ると森林地域では植物由来の物質が多いんですが、崩壊地を含む流域では少ないんです。雨が降ったときにうまくそれを分析できれば、はっきりした違いが見えるんじゃないかなと思って研究をやっているところですね。
分野横断的研究の面白さ

――井手先生は小水力発電についても研究されていると伺いましたが、なぜ始められたのでしょうか。
本学に赴任する前に九州大学で博士課程の学生を育成する副専攻プログラムの教員をやっていたんですが、そこで分野横断的な研究プロジェクトとして小水力発電の仕事を依頼されまして。僕は専門が水文学なので河川の流量を計るのは得意で、できることならやりますよっていうことで始めました。そして、やってみたら結構楽しくって。
分野横断の研究なので、インタビュー調査とかもするんですよ。僕は学生のときは文系のことをちょっと侮っていたんです。アンケートなんか項目によって結果が変わるじゃないかって思っていたんです。でも実はやっぱり奥が深くて。一番奥が深いなと思ったのは、インタビュー慣れした先生方と一緒に調査したときに、先生方が相手との自然な会話から聴きたいことを聴きだしていたことですね。この人たち本当にコミュニケーション能力が高いなと思って。
理系はもう分析装置使って、実験数やって、データとって、誰がやっても同じ結果が出ることを目指す、ですよね。一方文系の調査って、一通りの操作手順を踏めば情報が取れるわけじゃなくて、引き出さなくちゃいけないじゃないですか。それを見ていて、これは僕には出来ないと思って。調査の一環でインドネシアの伝統的な生活をしている地域に行ったんですが、知らないことだらけで新しいことばっかり出てくるんですよ。そういうところでインタビューしてるとすごく面白かったのが一つと。
あとは河川工学や農業工学の専門家とも一緒に研究していたんですが、僕ができないことやしたことのないことをやるのも面白かったですね。僕の専門は水文学で河川の流量や水質は測れるけど、小水力発電を研究する上では、ただ流量を測ったところであんまり意味ないよなあと思って。じゃあシミュレーションやろうと。将来気候変動で雨の量も気温も変わるし、インドネシアでは渇水の期間も伸びていくんですよね。小水力発電って基本的に水頼りなので、渇水の期間が延びたらどうなるのかシミュレーションしようということになって。それで河川工学の専門家と農業工学の専門家と3人でやろうとしたんですけど、みんなやったことないんですよ。農業工学の専門家は雨が降ったらどのくらい流出が変化するかは計算できたんですけど、それだけじゃなくて集中豪雨で河川が氾濫したときに発電機のタービンとかが無事なのかも予測したい。そしたら河川工学の方が氾濫解析のソフトウェアを使おうって言って使い始めて。みんなやったことなくてもそれぞれの得意分野を持ち出して、力を合わせてやっていくのがすごく面白かったんです。だから分野横断はちょっとやめられないですね。違う分野の研究者と話すのってすごく面白いので、北海道に来た今でも小水力発電の研究を続けています。

――そういったプロジェクトに、学生さんはどういうふうに関わっていらっしゃるんですか。
九州大学にいたときのプロジェクトでは実習として学生を調査に引率していたので、大学院の学生と一緒にインドネシアでインタビュー調査をやっていました。北海道に来てからは実はまだ学生を連れていけてなくて。ぜひ連れていきたいなと思っているんですけどね。コロナ禍があったのと、こっちで研究室を開いたばっかりで大学院生がなかなか来ないというのがあって。学部生はまだ下地ができていないので連れていっても旅行になっちゃうので、修士になってから行かせようと思っています。今やっと学生が修士に来たので、なんとか一緒に調査できないかなと思っているんですけど、僕と研究テーマが違うので難しいんですよね。
調査に学生を連れていくと、やっぱりみんな衝撃を受けるんですよ。「こんな生活してるんだ!」って。いい経験になるし、その反応が面白いんですよね。僕はフィンランドとかヨーロッパの方にも行ったことがあるんですけど、アジアの方が伝統的な生活を送っているところが多くて刺激も多いと思うんです。だからぜひ学生をインドネシアに連れていきたいなと思っているところです。
――その修士の学生さんも水文学がご専門なのですか。
そうですね。僕の研究室所属なので水文学を専門にしているんですが、その学生は、今は雨を採取して大気汚染物質を観測しています。ここは酪農地帯なので、アンモニアのガスやエアロゾルが結構多いんですよ。そのアンモニアが森林に降る窒素の量にどのくらい影響を与えているのかをテーマにしていますね。
――それぞれの地域ならではの面白い研究をしておられるんですね。
そうですね。今はちょっと九州に帰れないなと思っていて。もちろん森林が面白いっていうのもあるんですが、今年福岡に帰ったときにとても暑くって!この中で森林調査したらぶっ倒れるんじゃないかって(笑)。
しばらく北海道で研究をして、成果を上げたいなと思っています。
